∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-2 >志段味城

2005-05-20 15:19:43 | A-2 >桓武平氏水野氏
志段味城
 愛知県名古屋市守山区上志段味二ノ輪/羽根 Visit :2005-05-13 11:50
 愛知県名古屋市守山区中志段味野添/元屋敷

 志段味城の場所については4つの候補地が有るようだ。まず大久手池西の、野添川上流右岸に広がるなだらかな丘陵地で、今も「まむし注意」と黄色い看板が立つ上志段味ニノ輪がある。ここは地元で庄屋を務めたという家系に「ニノ輪の山上に城があった」と云う伝承があるそうだ。
次は天保15(1844)年の村絵図に城跡と記載のあるという上志段味羽根地区、その西方野添川左岸にある通称「しろあと」と呼ばれる中志段味野添区や、更に西の庄内川左岸の中志段味元屋敷遺跡があるが、現在は守山高校の敷地奥となっており、通行不可で側からの確認は出来なかった。

この頃の城は、中世の曲輪(くるわ)様式の館で、目的に応じて複数領地内に配する事もあると聞かれ、砦様式であっても後世城と呼ぶ事もあったようだ。

 志段味地区を支配した水野一族は東谷山東、瀬戸の水野村(愛知県瀬戸市)の豪族であり、桓武天皇の孫高望王の三男鎮守府将軍平良兼の末裔と云われている。志段味に最初に城を築いたのは水野小(又)太郎良春または水野雅楽助良春(うたのすけよしはる)で、両者は多分同一人物と思われ、その後良春はより肥沃な土地を求め南に進出し、南北朝時代、康安元(1361)年新居(尾張旭市)に城を築き一族をこの地に置いたという。志段味城を築いたのはそれより数年遡った1350年代後半ではないかと推定されている。
「尾張志」に、志段見城主水野雅楽助宗久宅址が新居村にあり、信長に仕えたが仔細あって浪人した。その子孫と思われる作右衛門は福島正則に仕えたが、正則が広島転封のとき尾張に残り農民なったとある。
また「尾陽雑記」によると二ノ曲輪の構え、堀のめぐらした跡が残っていたという。志段味城は水野家三代城主、福島正則に与した水野作右衛門がこの地で亡くなった後、四代目次左エ門が幼少のため衰退し江戸時代中頃帰農したとあり、また曰く、福島正則が安芸の国へ転封の時、水野作右衛門もこれに従い後廃城になったと云う説もあるようだ。


[注]
雅楽〔うた〕寮=治部省配下の大寮で、『うたまひ〔うたまい〕のつかさ』とも言い、歌舞音曲に関することを担当する。
 「雅楽」とは「俗楽」に対していうもので、「文武の雅曲正舞」を指す。
 歌舞音曲を担当しているのは、雅楽寮の他に以下のようなところがある。
  内教坊〔ないきょうぼう〕大歌所〔おおうたどころ〕楽所〔がくしょ〕
 管轄(被官)
     左弁官局 → 治部省 → 雅楽寮・玄蕃寮・諸陵寮


 雅楽寮職員構成
  頭(1名)→ 助(1名)→ 大允(1名)→ 大属(1名)→ 史生→ 使部
                少允(1名)  少属(1名)
                もののし(各種の楽人・舞人)
雅楽寮四部官(四等官・四分官)
『頭〔かみ〕』 従五位上
『助〔すけ〕』 正六位下
『大允〔たいじょう/だいいん〕』 正七位下
『少允〔しょうじょう/しょういん〕』 従七位上
『大属〔だいさかん〕』 従八位上
『少属〔しょうさかん〕』 従八位下

桓武平氏水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/777ff67bab506fc94b32ecf3b04681f4

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