∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >岡崎城

2005-05-25 05:01:26 | C-3 >山川山形水野
岡崎城
  愛知県岡崎市康生町561 岡崎公園内   Visit :2005-05-19 16:00

 昔、岡崎城は岡竒城と記され、菅生川(乙川)右岸の北に接し直ぐ本丸がありその北に二の丸があった。『参河國名所圖絵』には、
「岡崎は享禄(1528-1531)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり。新撰姓氏[二ノ二十八]河内の国神別之菅生朝臣、又續日本紀[五ノ九丁]従六位菅生朝臣大麿、又拾介抄中[二十九丁]朝臣の部に、菅生等見えたり。岡崎記に云、三州額田郡岡崎は往昔菅生郷にて築山領なり。(中略)當城は往昔、後花園天皇享徳元年(1452)、當郡大草の城主西郷海入道菅生郷竜頭山を見立て、こヽに一城を築く、即ち是を龍城と號く、柳当城の要害は、南に菅生の河内を形取、西に矢作の巨流を備へ、東方に亦菅生の川上、大平川を帯び、北に田圃を抱へて、無雙の名城海内に独歩す、故に恐(カシコ)けれど、東照神租、當城に御降誕ましまし、當城を以て礎となし玉いて、一と度剱を取て、天下に龍起なし玉ひとより終わりに国家を掌握なし給いて、四海を泰山の安に置給ふは、偏に 東照神租廣大無辺の御仁徳に倚るものなりかし、尓來諸侯かはるかはる當城に在して東武の藩鎭となり玉ふになん。」
とあり、「神君出生の城」として神聖視され、石高こそ五万石と少なかったが「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」とうたわれ、大名は岡崎城主となることを誇りとした。
当藩には、本田家(康重系統)、水野家、松平(松井)家、本田家(忠粛系統)と家格の高い譜代大名が城主となり、本田家の後、山川水野租水野忠元の長男忠善が三河吉田より入り、忠春、忠盈、忠之(老中)、忠輝、忠辰、忠任と続き、肥前唐津に転封した。
老中水野忠邦はこの末裔である。

小河水野系図
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