∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >三河吉田城

2005-05-21 15:51:57 | C-3 >山川山形水野
当吉田城は、はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。以来、東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、十五万二千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし照政は在城十年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。 . . . 本文を読む

C-1 >新城城

2005-05-21 14:43:27 | C-1 >小河氏系水野
新城城は大谷城主の菅沼定継が築いたのが始まりといわれている。長篠の戦いの後、長篠城主であった奥平九八郎信昌は徳川家康から郷ヶ原に築城を命じられ、天正四年(1576)1万5千石の城主となり現在の場所に新城城を移した。天正十八年(1590)徳川家が関東に移封されると片桐半右衛門正義が7千石で入城した。 . . . 本文を読む