∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >緒川城・高藪城

2005-05-27 16:02:16 | C-1 >小河氏系水野
緒川城・高藪城
    愛知県知多郡東浦町緒川字古城 Visit :2005-05-11 15:00

延文五年(1360)(正房の頃)土岐市によって滅ぼされた小河氏は、その末裔である水野貞守によって、百余年の後、応仁文明の乱(1467-77)を機に再興された。
そして、以後、小河・刈谷・常滑・大高等知多半島北部から三河に勢力を張った。これは、近世につくられた水野系図が、共通して描く水野氏再興の物語である。(『東浦町誌』)

城址説明文には、
1.高藪城(たかやぶじょう)  室町時代後期、竹内直道以下五代の居城であった。五代直玄は水野氏の家臣となった。後に水野忠守(忠元の弟)同分長(忠守の甥)がここに住んだ。
2.緒川城(土地の人は古城[ふじろ]と呼んでいる)   文明七年(1475)水野貞守が築き、賢正-清忠-忠政-信元、五代百年の居城であった。天正三年(1575)織田信長の命により信元が殺され、以降廃城となった。
とある。
その横の城址図には、地続きで北側に高藪城、南に緒川城が描かれている。当時当城の東は直ぐ海となっており、対岸に刈谷城があった。現在は、東浦町庁舎北の住宅地の中にあり、小高い丘と松林があるところが主郭跡の一部である。

4代目城主水野忠政は、東へ勢力を延ばし松平広忠に娘の於大を嫁がせ、松平氏と婚姻関係を結んだ。この於大の方が徳川家康の生母である。忠政は、刈谷城を攻略し、ここを本拠地として、嫡男信元に緒川城を譲った。関ヶ原の戦い後は水野分長が一万石の城主として入城したが、慶長十一年(1606)新城城に転封になると緒川城は廃城となった。

小河水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

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