瑞岩山天喜禅寺
岐阜県養老郡上石津町大字一之瀬1316-1 Visit :2005-06-18 13:30
明和八年(1771) 第七代水野平蔵藤原矩燵(のりたつ)作 殿鐘(喚鐘/半鐘)
当寺から頂いた資料によれば――
◎ 殿鐘(半鐘)
明和八(1771)年作 鋳工 名古屋住 水野平蔵 藤原矩達
1.本堂の西南隅に懸けてある殿鐘である。
総高 60cm
口径 36cm
口径部の厚さ 4cm
2.胴の四面に銘文が陰刻されており、これにより上記の鋳造年、鋳工があきらかであり、また下記のような鋳造因縁が知られる。
3.鋳造の因縁
この殿鐘は、古鐘を再鋳したものである。
古鐘は、当山十九世光堂和尚の代の、宝永八(1711)年三月二十四日に閑室良雅大姉二十七回忌の供養として、その子息が寄進したと記録されている。
その後、鐘にひびが入り音が悪くなったので、二十四世随法和尚の代の明和八(1771)年に再鋳される。銘文にある仁雲義因禅定門とは或いは古鐘の寄進者である閑室良雅大姉の子息かと想像されるが、古鐘寄進者の志を継ぎ、同時に檀家の人々の寄進も仰いで「浄心」という者が願主となって再鋳されたのである。
◎殿鐘 銘・釈文
1.于粤宝永八龍舎
重光單閼暮春念
四□胥膺于先妣
閑室良雅大姉二
十七回忌之辰爲
正等菩提寄進于
濃州石津郡市之
瀬郷瑞岩山天喜
禅寺者也
施主孝子敬白
□=草冠+ウ冠+具
[釈文]
1.ここに永保八(1711年)、龍(歳星=星が)重光(辛の異名)單閼(卯の異名)
に舎(やどる)(年の)、暮春(三月)二十四(日の)□胥(の日)、先妣(亡き母)閑室良雅大姉二十七回忌の辰(ひ)に膺(あた)り、正等菩提の爲に、
濃州(美濃州=現岐阜県)石津郡市之瀬郷の瑞岩山天喜禅寺に寄進するものなり。
施主 孝子敬白(親孝行な子供 つつしんでもうす)
2. 銘曰
禅林禮樂 進聚則之
課誦報衆 音響遠施
策念全今 停酸絶涯
聲聲吉利 億年福基
釋氏七十五世現当山主
光堂元虞 誌
[釈文]
銘に曰く
禅林(禅宗の寺院)の禮樂(れいがく= 礼節と音楽。昔、中国で、礼は社会の秩序を保ち、楽は人心を感化する作用のあるものとして尊重された。転じて、文化のこと)
進聚して之に則る。(これに則り、村里より奉じた の意か?)
誦を課し衆に報じて 音響遠く施す(お経をとなえ、多くの人に知らせて、音と響きを、遠くまで恵み与える の意か?)
策念全今 酸を停め涯を絶つ(念仏をとなえ、すべてを改むれば、悲しみをとどめ、うらみを絶つ)
聲聲吉利あり 億年の福の基なり(鐘の音はご利益があり、永遠の幸せのもととなる)
3.有如斯銘之古鐘矣
從何時乎得縫罅來
而其音不正于粤爲
仁雲義因禪定門抽
厥志檀越亦各有扶
助寸志合以再鋳焉
願主 浄心
明和八辛卯初秋自恣日
文華第十一世天喜
直随法 誌
[釈文]
斯の如き銘の古鐘あり。何れの時よりか縫罅(ほうか=ひび割れ)を来たし得て其の音正しからず。ここに仁雲義因禪定門の爲に厥(そ)の志を抽(ひ)く。
檀越(だんおつ=寺院や僧侶に金品を贈与する信者。施主。檀家)もまた各々寸志を扶助し、合わせ以て再鋳せり。
願主 浄心
明和八辛卯(1771年)初秋自恣日
文華第十一世(妙心寺末としての勧請う開山文華玄郁(~1608年)から数えて十一代に当たる)天喜
直随法(随法彗直、住持(1769~96年))
4. 名古屋住
鋳工 水野平蔵
藤原矩達
*釈文の内、( )内は、∞ヘロンが注釈したものである
☆旅硯青鷺日記
当山は、岐阜県不破郡関ヶ原町の名神関ヶ原インター南南東4.2kmにある山寺である。関ヶ原の古戦場にもほど近い。採訪した折り、ご住職がご在寺であり、殿鐘を快く撮影することをご承諾いただいた(写真添付)。また、この鐘についての由来などの資料もくださったので、ブログに転載させていただいた。上記の由緒からみてもかなりの古刹のようで、当寺では、喚鐘のことを殿鐘と称しておられるようだ。喚鐘は、本堂の外に吊されているところが多いが、当寺では、雪深いこともあってか、本堂内の西南隅に懸けてあり、風雨にも晒されていないことから表面はかなり綺麗であった。
愛知県西部の尾張の国では、水野太郎左衛門が織田信長から鋳物師頭の判物をもらい、その後尾張徳川家からも承認を受けていることから、同国中では水野太郎左衛門家が梵鐘などの鋳造を独占していたことで、分家の水野平蔵家では岐阜県や三重県に出職し、梵鐘などを鋳造していた。このことから、当寺の喚鐘も平蔵が鋳た物である。
なお、釈文の解説は自信がないので、間違いをご指摘いただければ幸いです。
水野平蔵家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104
岐阜県養老郡上石津町大字一之瀬1316-1 Visit :2005-06-18 13:30
明和八年(1771) 第七代水野平蔵藤原矩燵(のりたつ)作 殿鐘(喚鐘/半鐘)
当寺から頂いた資料によれば――
◎ 殿鐘(半鐘)
明和八(1771)年作 鋳工 名古屋住 水野平蔵 藤原矩達
1.本堂の西南隅に懸けてある殿鐘である。
総高 60cm
口径 36cm
口径部の厚さ 4cm
2.胴の四面に銘文が陰刻されており、これにより上記の鋳造年、鋳工があきらかであり、また下記のような鋳造因縁が知られる。
3.鋳造の因縁
この殿鐘は、古鐘を再鋳したものである。
古鐘は、当山十九世光堂和尚の代の、宝永八(1711)年三月二十四日に閑室良雅大姉二十七回忌の供養として、その子息が寄進したと記録されている。
その後、鐘にひびが入り音が悪くなったので、二十四世随法和尚の代の明和八(1771)年に再鋳される。銘文にある仁雲義因禅定門とは或いは古鐘の寄進者である閑室良雅大姉の子息かと想像されるが、古鐘寄進者の志を継ぎ、同時に檀家の人々の寄進も仰いで「浄心」という者が願主となって再鋳されたのである。
◎殿鐘 銘・釈文
1.于粤宝永八龍舎
重光單閼暮春念
四□胥膺于先妣
閑室良雅大姉二
十七回忌之辰爲
正等菩提寄進于
濃州石津郡市之
瀬郷瑞岩山天喜
禅寺者也
施主孝子敬白
□=草冠+ウ冠+具
[釈文]
1.ここに永保八(1711年)、龍(歳星=星が)重光(辛の異名)單閼(卯の異名)
に舎(やどる)(年の)、暮春(三月)二十四(日の)□胥(の日)、先妣(亡き母)閑室良雅大姉二十七回忌の辰(ひ)に膺(あた)り、正等菩提の爲に、
濃州(美濃州=現岐阜県)石津郡市之瀬郷の瑞岩山天喜禅寺に寄進するものなり。
施主 孝子敬白(親孝行な子供 つつしんでもうす)
2. 銘曰
禅林禮樂 進聚則之
課誦報衆 音響遠施
策念全今 停酸絶涯
聲聲吉利 億年福基
釋氏七十五世現当山主
光堂元虞 誌
[釈文]
銘に曰く
禅林(禅宗の寺院)の禮樂(れいがく= 礼節と音楽。昔、中国で、礼は社会の秩序を保ち、楽は人心を感化する作用のあるものとして尊重された。転じて、文化のこと)
進聚して之に則る。(これに則り、村里より奉じた の意か?)
誦を課し衆に報じて 音響遠く施す(お経をとなえ、多くの人に知らせて、音と響きを、遠くまで恵み与える の意か?)
策念全今 酸を停め涯を絶つ(念仏をとなえ、すべてを改むれば、悲しみをとどめ、うらみを絶つ)
聲聲吉利あり 億年の福の基なり(鐘の音はご利益があり、永遠の幸せのもととなる)
3.有如斯銘之古鐘矣
從何時乎得縫罅來
而其音不正于粤爲
仁雲義因禪定門抽
厥志檀越亦各有扶
助寸志合以再鋳焉
願主 浄心
明和八辛卯初秋自恣日
文華第十一世天喜
直随法 誌
[釈文]
斯の如き銘の古鐘あり。何れの時よりか縫罅(ほうか=ひび割れ)を来たし得て其の音正しからず。ここに仁雲義因禪定門の爲に厥(そ)の志を抽(ひ)く。
檀越(だんおつ=寺院や僧侶に金品を贈与する信者。施主。檀家)もまた各々寸志を扶助し、合わせ以て再鋳せり。
願主 浄心
明和八辛卯(1771年)初秋自恣日
文華第十一世(妙心寺末としての勧請う開山文華玄郁(~1608年)から数えて十一代に当たる)天喜
直随法(随法彗直、住持(1769~96年))
4. 名古屋住
鋳工 水野平蔵
藤原矩達
*釈文の内、( )内は、∞ヘロンが注釈したものである
☆旅硯青鷺日記
当山は、岐阜県不破郡関ヶ原町の名神関ヶ原インター南南東4.2kmにある山寺である。関ヶ原の古戦場にもほど近い。採訪した折り、ご住職がご在寺であり、殿鐘を快く撮影することをご承諾いただいた(写真添付)。また、この鐘についての由来などの資料もくださったので、ブログに転載させていただいた。上記の由緒からみてもかなりの古刹のようで、当寺では、喚鐘のことを殿鐘と称しておられるようだ。喚鐘は、本堂の外に吊されているところが多いが、当寺では、雪深いこともあってか、本堂内の西南隅に懸けてあり、風雨にも晒されていないことから表面はかなり綺麗であった。
愛知県西部の尾張の国では、水野太郎左衛門が織田信長から鋳物師頭の判物をもらい、その後尾張徳川家からも承認を受けていることから、同国中では水野太郎左衛門家が梵鐘などの鋳造を独占していたことで、分家の水野平蔵家では岐阜県や三重県に出職し、梵鐘などを鋳造していた。このことから、当寺の喚鐘も平蔵が鋳た物である。
なお、釈文の解説は自信がないので、間違いをご指摘いただければ幸いです。
水野平蔵家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104