邪馬台国九州説。
柳川・甘木・宇佐・耶馬溪・天草etc
実は邪馬台国の研究は、江戸時代からされているんですよね~。
それでも何故1800年近く経過した今でも邪馬台国の場所のみか、存在が確定できないのでしょうか?
理由は、魏志倭人伝に書いてある『距離・方位・地名』にあります。
その距離と方位のままに進めば自然と邪馬台国へ到着できるはずなんですけどそれができない・・・・なぜなら
現韓国を出国して、対馬・壱岐に寄港したのはほぼ間違いないようですが
その後、どこに上陸したかによって場所が変わってくるのです。
これについて諸説がありますのでココでの明言は避けますが
一般的には、佐賀県松浦郡に上陸したと考えられています。
理由は、魏志倭人伝に、壱岐の次に登場する『末廬(まつら)国』が
佐賀県の松浦と呼び方が似ているのが一番の理由でしょうね。
しかし、1800年近く経過しているのに、名前が似ていると言うだけで断定するのもおかしな話ですが、この説が大幅に支持されているのも事実です。
でも末廬(まつら)国から魏志倭人伝の通りに進むと全然見当違いな場所に着いてしまうのです。
ここが邪馬台国を謎にしている最大の原因と言っても過言ではないでしょう。
『烈田の溝』なるものを知りました。
ここで登場してくるのが神功皇后。
この神功皇后、福岡にとてもゆかりのある皇后様でもあります。
朝鮮遠征から帰った来て子供を出産。
その出産した場所が、安産祈願で有名な宇美八幡宮となり
宇佐方面へ帰るために産まれた赤ん坊を『竹を編んだカゴ』=『しょうけ』に入れて山を越えた。
その峠がショウケ越えと呼ばれ
その時の赤ん坊が、実は日本で2番目に大きい前方後円墳の主?である応神天皇となるわけです。
また神功皇后は福津市にある宮地嶽神社や筥崎宮でも祭られています。
夫(応神天皇の父)が仲哀天皇といい、宇佐~田川へ抜ける峠を仲哀トンネルと呼ぶ名残りがあります。
神功皇后=卑弥呼説が説かれていましたが、時代的に100年ほど合わないと言う結果となっています。
しかし、宇佐神宮では応神天皇・比売大神・神功皇后を主祭神として祭られていますが、実は真ん中の比売大神の実態が正体不明の面もあります。
その正体不明の方が、両隣に有名な天皇とその母方の皇后を従える形で祭られていることが、実は、この方こそが卑弥呼ではなかろうか?と言う説もあります。
また、神社でよく見る注連縄は、一般的に外界との結界の意味もあるらしく、
外界の色々なモノを神様に入れないという事らしいのですが
宇佐神宮と出雲大社の注連縄は一般と逆なのです。
逆に飾るのは、下界に出てこない・封じ込めるの意味があるらしく、
宇佐神宮では、『注連縄が逆なのは、封じ込める何かがあった証拠だ。』と言われ
卑弥呼が使っていたとされる『鬼道』を封じ込めたと言われています。
それに、紀元769年、朝廷が次期天皇の相続について、奈良県からわざわざ宇佐神宮へ相談にやってきたと言う挿話もあります。
※道鏡の宇佐八幡神宮神託事件
それだけ宇佐神宮とは重要な聖地でもあったようです。
最近、邪馬台国の本を読んでいますが、大きく分けると
邪馬台国は九州説と奈良の近畿説に別れています。
また、畿内説を唱えている人達が京大派であり、九州説を推しているのが東大派でもあるのもおかしい事実だと思います。
柳川・甘木・宇佐・耶馬溪・天草etc
実は邪馬台国の研究は、江戸時代からされているんですよね~。
それでも何故1800年近く経過した今でも邪馬台国の場所のみか、存在が確定できないのでしょうか?
理由は、魏志倭人伝に書いてある『距離・方位・地名』にあります。
その距離と方位のままに進めば自然と邪馬台国へ到着できるはずなんですけどそれができない・・・・なぜなら
現韓国を出国して、対馬・壱岐に寄港したのはほぼ間違いないようですが
その後、どこに上陸したかによって場所が変わってくるのです。
これについて諸説がありますのでココでの明言は避けますが
一般的には、佐賀県松浦郡に上陸したと考えられています。
理由は、魏志倭人伝に、壱岐の次に登場する『末廬(まつら)国』が
佐賀県の松浦と呼び方が似ているのが一番の理由でしょうね。
しかし、1800年近く経過しているのに、名前が似ていると言うだけで断定するのもおかしな話ですが、この説が大幅に支持されているのも事実です。
でも末廬(まつら)国から魏志倭人伝の通りに進むと全然見当違いな場所に着いてしまうのです。
ここが邪馬台国を謎にしている最大の原因と言っても過言ではないでしょう。
『烈田の溝』なるものを知りました。
ここで登場してくるのが神功皇后。
この神功皇后、福岡にとてもゆかりのある皇后様でもあります。
朝鮮遠征から帰った来て子供を出産。
その出産した場所が、安産祈願で有名な宇美八幡宮となり
宇佐方面へ帰るために産まれた赤ん坊を『竹を編んだカゴ』=『しょうけ』に入れて山を越えた。
その峠がショウケ越えと呼ばれ
その時の赤ん坊が、実は日本で2番目に大きい前方後円墳の主?である応神天皇となるわけです。
また神功皇后は福津市にある宮地嶽神社や筥崎宮でも祭られています。
夫(応神天皇の父)が仲哀天皇といい、宇佐~田川へ抜ける峠を仲哀トンネルと呼ぶ名残りがあります。
神功皇后=卑弥呼説が説かれていましたが、時代的に100年ほど合わないと言う結果となっています。
しかし、宇佐神宮では応神天皇・比売大神・神功皇后を主祭神として祭られていますが、実は真ん中の比売大神の実態が正体不明の面もあります。
その正体不明の方が、両隣に有名な天皇とその母方の皇后を従える形で祭られていることが、実は、この方こそが卑弥呼ではなかろうか?と言う説もあります。
また、神社でよく見る注連縄は、一般的に外界との結界の意味もあるらしく、
外界の色々なモノを神様に入れないという事らしいのですが
宇佐神宮と出雲大社の注連縄は一般と逆なのです。
逆に飾るのは、下界に出てこない・封じ込めるの意味があるらしく、
宇佐神宮では、『注連縄が逆なのは、封じ込める何かがあった証拠だ。』と言われ
卑弥呼が使っていたとされる『鬼道』を封じ込めたと言われています。
それに、紀元769年、朝廷が次期天皇の相続について、奈良県からわざわざ宇佐神宮へ相談にやってきたと言う挿話もあります。
※道鏡の宇佐八幡神宮神託事件
それだけ宇佐神宮とは重要な聖地でもあったようです。
最近、邪馬台国の本を読んでいますが、大きく分けると
邪馬台国は九州説と奈良の近畿説に別れています。
また、畿内説を唱えている人達が京大派であり、九州説を推しているのが東大派でもあるのもおかしい事実だと思います。