株式会社葉月の社長ブログ 『うちは技術屋です』

飯塚市嘉麻市(筑豊福岡全域)で塗装・塗替え・防水改修などをやっています。

逝去

2009年02月27日 | 日記
昨年11月に入院した父である会長が他界しました。

肺がんで余命半年と診断されましたが、精密検査を受けた結果ガンの転移がなかったため、少し希望を持ってましたけど、やはりダメでした。

闘病4か月、私はほぼ毎日病院へ通いました。
忙しいし、実際は病院に行くなら現場を見に行った方がいいんですけど
父が私の顔を見たいというので、できる限り顔を出しました。

2月の初旬には元気になり、何度か帰宅できるようになりました。
ガンの放射線治療がうまくいき、気道が広がったので少し楽になったんでしょう。

このまま外出を何度か繰り返し、2月16日には退院の予定もありましたが
14日から肺炎(放射線治療を受けると起こしやすい)を誘発し

2月18日から危篤になりました。


肺ガンはすごく苦しいみたいです。

この闘病4ヵ月間を見てそれが分かりました。
先週は苦しくて息ができなく、死なせてくれと言わんばかりに苦しんでいました。

頑張って病気が治るのならいいです。
息ができないけど、苦しいけど治療すれば治るならいいです。

しかし、父の場合は苦しんで死を待つのみ。
72年間生きてきて、死ぬ間際が苦しいのはさすがに耐えられません。
どうせ死ぬなら安らかに眠らせてあげたい。

家族の総意で、なるべく安楽死を希望し、18日の危篤状態から薬で意識を飛ばし寝かせ続けました。

通常なら半日は寝てしまうほどの睡眠薬を投与しても、苦しくて30分で起きてしまうんです。
想像を絶する量の睡眠薬が必要となりました。

麻薬に近い薬です。

それを使い、意識を飛ばしました。
が、意識が飛び過ぎて呼吸を忘れ死に至る場合もあります。
それでも、苦しいよりはマシだろうと思えるほど苦しんでいました。

19日は家族全員で病室で過ごしました。
20日は私が泊まり
21日は兄が泊まり
22日は母が泊まり
23日はまた私が泊まりました。

家族も大変だし、私も仕事すら手につきません。
長い入院生活で母も体調を崩し、私が病院につく時間が長くなり
その分仕事ができなくなりましたが・・・


2月24日午後3時過ぎ、呼吸回数が減り、体内酸素が90以上あったのが段々と下がってきました。
体内酸素が90を切ったら危険信号、80を切ったらあと数時間の命と言われていました。

その体内酸素が気になるためにずっと泊って見続けてきました。

19日に薬で寝かせてから1回もしゃべることなく、静かに息を引き取っていきました。

ようやく楽になれたようです。

いつかは自分の親が死ぬとは分かっていましたが、いざとなると・・・・

11月に余命半年と言われたとき、かなりショックを受けました。
親が死ぬ。と言う事を理解できませんでした。

しかし、人間、生き続けるのなら親の死を体験しないといけないんです。
世の中の多数の人は親の死を乗り越えて生きている。

そう思えるようになりました。

人間、生きている限り肉親の死を迎える時期がくるんです。

今は葬儀も無事に終わり少し気が抜けました。

現場は社員や外注さんにお任せして、今週まで少しゆっくりさせてもらいます。