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楢尾の石仏(いしぼとけ)さん

2010年09月14日 | 言い伝え&伝承
藁科川の最上流部に楢尾を訪ねました。

湯ノ島温泉を過ぎて、湯ノ島大橋を渡る手前を崩野川にそって左折し、次の分岐を右に曲がって、すぐの橋を渡って川の左岸側にうつると、次第に坂道は勾配を増して、所々で人家や茶畑を通り過ぎながら、ぐんぐんと道は標高を上げていきます。

谷を挟んだ右岸側には智者山や天狗石岳がつらなる稜線が、まだくっきりとした夏の空を切り取り、モコモコと羊の毛のような濃い山の緑が連なる中腹に、崩野の集落の赤い人家の屋根がアクセントとなって点々と散らばっています。

しばらくは右へ左へとカーブする一本道にハンドルを握り締めると、視界が開け、といっても斜面に張り付いた5~6軒の家が立ち並ぶ、楢尾の本村に到着しました。車を降りて、目の前に広がる山と空に二分された高みからの景色を眺めながら、こんなところにも人の暮らしが営まれていることには、いつもながらに驚かされます。

海禅寺に参り、今は青少年の家として利用されている旧楢尾小学校を訪れ、歩いていったものかどうか、楢尾の石仏さんの場所を、村の人に訪ねてみました。

場所が分かりにくいことを必死に詫びるかのように、とても丁寧に道案内をしてくださり、心配していただいている顔に見送られながら、車であがることにしました。旧小学校跡へ左折したY字路を今度は右に登り返して、集落は直に切れ、ダートになった人工林の林道を走ると5分もたたない道の左側に、朽ち果てた道標が人の訪問などまったく期待せず建っていました。

車を降りて、その道標が指し示す方向をみるやいなや、目に飛び込んできたのは横枝を振り乱した杉の大木。「あそこだ」と楢尾の石仏は、すぐに分かりました。

2本の杉の大木と、その間の祠と、パチンコ台に玉が一気にあふれたかのように、転がる丸い石の数々。整った周辺の人工林の環境とは明らかに違うその様相に、地上の丸石に込められた人の願いを吸収し、それを栄養にして育ったかのような、大きな杉の枝ぶりには、空中のさまよえる霊に手を伸ばしているような迫力がありました。

帰り道、道を尋ねた村人のところへ、見つかったお礼に伺うと、「私もね、畑に行く前に石仏さんにお参りすると、帰りには痛かった腰が治ったことがありましたよ」。

楢尾の石仏さんは、まさに村人や旅人が、ひとつひとつの転がる石に願いを込めて積み上げてきた信心が結晶となった山の神でした。


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『楢尾の石仏(いしぼとけ)について』

標高およそ600m、楢尾小学校から、およそ1㎞位登ったところの道端に、遠い昔を物語るかのように、風雨にさらされ、落雷に痛められ、根は蟻に蝕まばれながらも、緑の枝葉を伸ばして、年老いた杉の大樹が二本並んで立っています。此の二本の杉の木の間には、大小さまざまの丸い石が、何百個というほど積まれています。この石は、丸い石とは言っても、磨かれた川原や海岸にある石とは全然違った山の石であって、ぼろぼろの岩の中から、時折に出てくる岩の核子とても言うのでしょうか。簡単にいつでも手に入るという石ではありませんが、此の石を、石仏様へ供えてお祈りすれば、旅の疲れも癒し、足腰の痛みも和らげてくれると、昔から言い伝えられています。誰彼が何時供えたかと言うのではなくて、永年の間に、何時とはなく心がけのある村の人や、通りがかりの旅人、わざわざお詣りに来る人、山づくりに励んでおられた方など、信仰篤い人達の真心の積み重ねによって、石塚と言ってもよいでしょう。これが楢尾の石仏であります。

今では寂しい山道となっておりますが、昔はこの石仏を中心として、東は大間の石仏、大間を経て、玉川や井川方面へ。北は七ツ峰を仰ぎながら、益田山を通り、梅地長島方面へ。西は楢尾小学校を過ぎ崩野・八草・智者山を経て川根方面へ。また南は、川合より湯ノ島を通り、藁科川にそって静岡方面へと、唯一の重要な街道であったことと思われます。昔は大間の不動さん、楢尾のお稲荷さん、智者山の観音様などのご縁日には、遠くからの参詣者も見えて賑わった道でもあります。大間からの学童たちの通学はもとより、あらゆる行商人や多くの旅人などが、この道を通われたことと想像されます。石仏の起源は詳らかではありませんが、大きな杉の木は、旅行く人の道標であり、しばしの憩いの場でもあったことでしょう。

これも古い話しではありますが、ある時、留さんという人が、この石仏を通りかかると、一匹の大きなやまがかし(蛇)がいた。もとより蛇の嫌いな留さんは、持っていた杖で、蛇の胴中めがけて一打ちくれると、蛇はのたうちながら、草むらの中に見えなくなってしまったので、留さんはそのまま家に帰ったが、家に来てみると、大変なことに妻のおぎんさんが、お腹を押さえてもだえ苦しんでおりました。驚いた留さんは、薬を飲ませたりいろいろと手当てをしてもいっこうにおさまる様子もありません。途方にくれていた留さんが、はっと頭に浮かんだのは、先ほど石仏さんで蛇を痛めつけたことでありました。これはきっと、石仏さんのお怒りかもしれない、と気がついた留さんは、早速お神酒やお洗米などを用意して石仏さんのところへ行って、一心にお詫びをして妻の痛みが治まる様にと、お祈りしました。そして家に帰ってみると、あんなに苦しんでいた妻のおぎんさんは、いつの間にか、嘘のように痛みも治まってけろりとして、座っていたということです。実際にあったことと言い残されています。

この石仏さんに昭和54年の春、奇篤な人たちのご寄進によって、新しい祠が建てられました。石仏さんを信仰すると、腰の痛みや皮膚の病なども不思議に治してくれるといううわさも広まって、今では遠いところからわざわざお詣りに来る人やお礼詣りに来る人など、信仰する人たちもだんたん多くなり、山の中にうずもれていた楢尾の石仏さんは、山の守り神として、多くの人に親しまれ、一段と格があがった様な感がしております。

『ふる里わら科八社 第1集』大川寿大学

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