■掛川城,歴史大河の舞台
第8師団祭に併せ、被災した熊本城を探訪しました。心痛む情景ですが、今回は東海地震の巨大災害が相次ぎ襲う掛川城が地震被害を克服した歴史を紹介しましょう。

掛川城、東海道の要衝は遠江国佐野郡掛川の防衛を担う城郭です。山内一豊が拝領した領地の要衝ですが、築城は朝比奈泰煕が1470年頃まで遡ります。東海道新間新幹線と東海道本線から輝く天守閣は複合式望楼型三重四階の復原天守閣で、駅から城下町が続きます。

東海道の要衝という掛川ですが、交通一つとってもJR東海と共に天竜浜名湖鉄道掛川駅が浜名湖の北へ路線を展開させており、太平洋沿岸の街道と浜名湖湖北街道との結節点となり、古くからこの掛川が東国と当時の京都を結ぶ遠江国要衝で緊要地形となっていました。

山内一豊が今日の掛川城の勇壮な城郭を造営しましたが、この掛川は現代日本へ至る壮大な歴史大河の舞台となっています。天守閣は惜しくも1854年の安政東海地震に数千の人々共に災厄に崩れ落ちました。その後1994年に日本初の木造天守閣として復興されました。

朝比奈泰煕、掛川城を拓いた武将は駿河国守護今川家家臣朝比奈吉俊の子として生まれ、今川義忠の下で武勲を挙げました、武勲とは今川義忠の室町幕府八代将軍足利義政の命による足利成氏討伐の勲功です。将軍足利義政といえば幼少期に将軍職を拝領した苦労人だ。

今川義忠が朝比奈泰煕へ掛川領主を命じた背景には、将軍足利義政の治世下で事実上の名誉職的位置づけに封じた幕府権力再興を図り守護大名間の紛争や家督争いへ介入を続けた時代ですが、この結果応仁の乱が勃発、掛川城は室町時代の応仁元年前夜に造営されます。

応仁の乱は京都を全滅させた11年の内戦という印象が日本史に残りますが、掘り下げればこの遠江守護職は斯波氏となり、応仁の乱の政所執事という関係です。その後、今川氏と斯波氏との対立が生じ、故に緊要地形たる掛川防備を緊急に高める必要へ繋がった訳です。

東下り、という言葉の通り関東が我が国中枢となるのは更に時代を経る必要がありますが、応仁の乱の栄養が全国へ波及する中、主戦場となるを免れた掛川は現在の掛川城城郭と比較すれば規模は限られるもののその規模を広め、しかし続き安土桃山時代の戦乱を迎えた。

駿府館を本拠地として今川氏真は父今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長へ討たれて後勢力を急速に弱め、配下の重心掛川城主朝比奈泰朝と共にこの地域の守護大名を務めていた。応仁の乱ほど局地戦ではないものの安土桃山時代は日本全土が戦地、掛川も例外ではない。

駿河侵攻、今川氏所領は現在の静岡、甲斐国の武田信玄と三河国の徳川家康は、その安土桃山時代に入り今川家を先制確保する街道の紛争へ巻き込まれました。挟撃をうけ駿府館を放棄した今川氏真は掛川城へと後退を余儀なくされ、城は徳川軍の完全包囲に陥ります。

徳川家康の圧力を受け城主朝比奈泰朝は今川氏真と共に無血開城を決意、盟友北条氏の拠点である小田原城へと転進を果たしました。朝比奈泰朝は徳川家臣酒井忠次に仕え、今川氏真は後に徳川家康保護など転々と所領を縮めつつ京都に江戸時代初期まで生き延びます。

掛川城は徳川軍により無血開城へ至りましたが、難攻不落との心証を強くしました。攻防半年の後も落城の余地はなく、開城に至るも徳川の完全包囲下で今川氏真と主朝比奈泰朝が小田原へ撤退を無事許した背景に、徹底抗戦と鉄の意志が垣間見え、堅固が読み取れる。

石川家成、掛川城城代には家康の重臣である伊勢亀山藩石川家の石川家成を充て、豊臣秀吉の直臣山内一豊の所領となりました。城は山内一豊所領時代に天守閣を造営し、最盛期を極めましたが、その後、周期的に襲う東海地震を前に倒壊と再建を重ね、今に至ります。
北大路機関:はるな くらま
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第8師団祭に併せ、被災した熊本城を探訪しました。心痛む情景ですが、今回は東海地震の巨大災害が相次ぎ襲う掛川城が地震被害を克服した歴史を紹介しましょう。

掛川城、東海道の要衝は遠江国佐野郡掛川の防衛を担う城郭です。山内一豊が拝領した領地の要衝ですが、築城は朝比奈泰煕が1470年頃まで遡ります。東海道新間新幹線と東海道本線から輝く天守閣は複合式望楼型三重四階の復原天守閣で、駅から城下町が続きます。

東海道の要衝という掛川ですが、交通一つとってもJR東海と共に天竜浜名湖鉄道掛川駅が浜名湖の北へ路線を展開させており、太平洋沿岸の街道と浜名湖湖北街道との結節点となり、古くからこの掛川が東国と当時の京都を結ぶ遠江国要衝で緊要地形となっていました。

山内一豊が今日の掛川城の勇壮な城郭を造営しましたが、この掛川は現代日本へ至る壮大な歴史大河の舞台となっています。天守閣は惜しくも1854年の安政東海地震に数千の人々共に災厄に崩れ落ちました。その後1994年に日本初の木造天守閣として復興されました。

朝比奈泰煕、掛川城を拓いた武将は駿河国守護今川家家臣朝比奈吉俊の子として生まれ、今川義忠の下で武勲を挙げました、武勲とは今川義忠の室町幕府八代将軍足利義政の命による足利成氏討伐の勲功です。将軍足利義政といえば幼少期に将軍職を拝領した苦労人だ。

今川義忠が朝比奈泰煕へ掛川領主を命じた背景には、将軍足利義政の治世下で事実上の名誉職的位置づけに封じた幕府権力再興を図り守護大名間の紛争や家督争いへ介入を続けた時代ですが、この結果応仁の乱が勃発、掛川城は室町時代の応仁元年前夜に造営されます。

応仁の乱は京都を全滅させた11年の内戦という印象が日本史に残りますが、掘り下げればこの遠江守護職は斯波氏となり、応仁の乱の政所執事という関係です。その後、今川氏と斯波氏との対立が生じ、故に緊要地形たる掛川防備を緊急に高める必要へ繋がった訳です。

東下り、という言葉の通り関東が我が国中枢となるのは更に時代を経る必要がありますが、応仁の乱の栄養が全国へ波及する中、主戦場となるを免れた掛川は現在の掛川城城郭と比較すれば規模は限られるもののその規模を広め、しかし続き安土桃山時代の戦乱を迎えた。

駿府館を本拠地として今川氏真は父今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長へ討たれて後勢力を急速に弱め、配下の重心掛川城主朝比奈泰朝と共にこの地域の守護大名を務めていた。応仁の乱ほど局地戦ではないものの安土桃山時代は日本全土が戦地、掛川も例外ではない。

駿河侵攻、今川氏所領は現在の静岡、甲斐国の武田信玄と三河国の徳川家康は、その安土桃山時代に入り今川家を先制確保する街道の紛争へ巻き込まれました。挟撃をうけ駿府館を放棄した今川氏真は掛川城へと後退を余儀なくされ、城は徳川軍の完全包囲に陥ります。

徳川家康の圧力を受け城主朝比奈泰朝は今川氏真と共に無血開城を決意、盟友北条氏の拠点である小田原城へと転進を果たしました。朝比奈泰朝は徳川家臣酒井忠次に仕え、今川氏真は後に徳川家康保護など転々と所領を縮めつつ京都に江戸時代初期まで生き延びます。

掛川城は徳川軍により無血開城へ至りましたが、難攻不落との心証を強くしました。攻防半年の後も落城の余地はなく、開城に至るも徳川の完全包囲下で今川氏真と主朝比奈泰朝が小田原へ撤退を無事許した背景に、徹底抗戦と鉄の意志が垣間見え、堅固が読み取れる。

石川家成、掛川城城代には家康の重臣である伊勢亀山藩石川家の石川家成を充て、豊臣秀吉の直臣山内一豊の所領となりました。城は山内一豊所領時代に天守閣を造営し、最盛期を極めましたが、その後、周期的に襲う東海地震を前に倒壊と再建を重ね、今に至ります。
北大路機関:はるな くらま
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