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【京都幕間旅情】龍安寺方丈庭園,紅葉の七五三の庭と静寂の虎の子渡しの庭に視る日本庭園史

2020-12-03 20:09:15 | 写真
■石庭は国の史跡及び特別名勝
 龍安寺。この庭園の完成美はなにかこう自分が庭園を手探りながら作庭する際にどうしても思い浮かべる美麗が。

 龍安寺の石庭。京都を代表する庭園が紅葉が美しい。ここは、虎の子渡しの庭や七五三の庭、とも呼ばれ国の史跡及び特別名勝に指定されています枯山水庭園です。もともとは方丈庭園といいまして幅は25mと奥行にして10mほどの長方形の庭園となっています。

 細川勝元が開基となり開山に義天玄承宝徳2年こと西暦1450年に建立された龍安寺ですが、この石庭が造営されたのは室町末期の西暦1500年頃、特芳禅傑ら禅僧によって作庭されたと考えられています。石庭造営前の方丈庭園については、まだ研究途上ともいいますが。

 七五三の庭と称されます由来は、東から庭石が五と二と三に二と三の五群で構成される石組を、五と二で七石、三と二で五石、そして隅にで三石と、七五三の三群から構成され、割れない数位の奇数が少なくなることで奥行を構成しようとした、とも解釈されますが。

 虎の子渡しの庭。こう呼ばれる背景には、中国の故事に虎と虎の子三頭の中の家族の内、虎の子一頭だけが際立って獰猛であり、その虎の子を連れて母虎が大河を渡る際に獰猛な子を他の虎の子と親が居ぬ間に放置しておくと襲てしまう為に順番を考える、というもの。

 虎、彪を引いて水を渡る。こう呼ばばれる虎児いや故事であるのですが、実際には諸説あるようで龍安寺の石庭が何を示しているのかは不明です、庭石は十五あり、同時に全て見えないとも云われますが角度次第で方丈から見えるものであり、哲学はまだまだ、奥深い。

 思案の時間、なにしろ今ほど情報の洪水に見舞われていない時代にはこう、不思議の込められた石庭を前に、数多拝観者や僧侶や貴人に武人や詩人に修学旅行生が思い馳せたのでしょうか。方丈には龍と北朝鮮の金剛山が題材の1952年落成という襖絵がひろがります。

 皐月鶴翁が戦後に5年を掛けて描写した襖絵とともに、しかし石庭というものは不思議なものだと眺めます。枯山水とは、分権によっては仮山水とも故山水とも、または乾泉水とも涸山水とも表現されるものでして、しかし作庭史をみれば、歴史は意外と古いのですね。

 橘俊綱。平安朝の際立った趣味人であり、藤原頼通の子でかの藤原道長の孫が記した日本最初の庭園体系書“作庭記”には既に枯山水という表現が作庭の用語として記されています。橘俊綱による“作庭記”が現存する文献での最古ではありますが、藤原摂関家時代だ。

 三条院の庭。平安朝末期の長和5年こと西暦1026年に記された“栄花物語”にも枯山水が記されていまして、用語の枯山水と今日の枯山水には相違があるとの分析もありまして、何しろ現存していないものも多い訳で、奥深さの議論は、まだまだ百年単位で楽しめそう。

 日本庭園。そもそも枯山水の始まりは、日本庭園が大量の水を必要とするものであり、雄大ではあるのですが作庭できる立地が限られた事から、石庭ならば水の利が無くとも造営できるものであり、他方でその揺るがぬ情景が禅寺の気風と合致したともいわれています。

 寝殿造庭園や回遊式庭園という、平安朝までの庭園とはまさにこうしたものを示し、即ちこれは権力者や実力者の風情から庭園という概念を広く普及させたものでもあり、こうした視点から考えれば日本庭園の転換点ともなった、石庭にはこうした意味もあるのですね。

 龍安寺も一頃には通勤電車のような賑わいがありましたが、昨今は諸般の事情から時間帯を選べばこう静寂と思想瞑想を愉しむ事が出来る余裕が回帰しています。静かな時間に豊かに過ごし、何かを考える、こうした少し方も、心の健康には、良いのかもしれませんね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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