北大路機関

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岐阜基地航空祭2007(岐阜基地開庁50周年記念航空祭) (4)

2008-11-25 22:35:51 | 航空自衛隊 装備名鑑

■岐阜基地航空祭07

 岐阜基地の撮影ポイントは?、岐阜基地撮影地点のお薦めは?というキーワードの検索にての本ブログへのアクセスがここ数日激増しているが、正直、歩けばそれだけ多くのポイントがある、まずは散策!散策!!。

Img_7089  岐阜基地航空祭2007は、オープニングフライトに続き、今度は救難展示である。陸自の駐屯地祭であれば、“部隊整列・指揮官巡閲・訓示”・“観閲行進”・“訓練展示・模擬戦”・“装備品展示”のだいたい四回にわけて詳報掲載、となるのだが、航空祭は真面目に掲載してゆくと先が長い。だいたい、滑走路の南側に行く!って書いてからけっこう経つのだ。

Img_7100  救難展示は、これまで浜松救難隊のV-107救難ヘリコプターが実施していたのだが、2007年からはUH-60Jが実施した。いよいよV-107も除籍が近づいているのだ、と実感する(地上展示には参加)、洋上迷彩を意識したロービジ塗装のUH-60Jは、エプロン地区周辺を中心に機動飛行を展開した。

Img_7112  続いて救難隊員が落下傘降下。・・・、ちと遠すぎるのでは?と思われるかもしれないが、その通り、滑走路南側に向かう道中に遥かかなた救難展示を撮影したという状況なので、展示は1kmほど先で行われている次第。救難展示は、エプロン地区でみるのがいちばんよくみえるのだが、まあ、救難展示をやっている的な証拠写真はここからも撮影可能だ。

Img_7156  救難展示は、だいたいどこの航空祭でもみることができるし、と割り切って行動した次第。異機種編隊飛行、“異”という漢字が好きではないので当方は、多機種大編隊、と呼称しているのだが、これの離陸までになんとしても滑走路南側に行かなければならない。UH-60Jの背中をみつつ、移動を続ける。

Img_7082  U-125,これは救難展示の捜索機ではなく練習機。滑走路の北側から離陸を撮影した写真なので、このように機体の影を写すこととなり、どうしても機体が黒っぽく、更に空は逆光で白っぽくなってしまっている写真だ。航空雑誌に掲載される青空と美しい塗装の飛実団航空機、という写真は順光の写真だから、ね。

Img_6982  はやくつけはやくつけ!と心の中で数百回唱えた頃、ようやく、滑走路南側に到着。詳報を掲載してからすでに四回目だ。セイバーが待っていた。F-86Fは1955年から1982年まで航空自衛隊で、要撃機、そして支援戦闘機として運用された機体だ。セイバーは、正門からはいったところにある保存機展示区に置かれている、つまり、遂に滑走路の南側に到達したのだ。

Img_6967 シャトルバス使え!、といわれそうだが。まあ、徒歩で行くのも様々なものが見れて良い、と勝手に考えて、多機種大編隊の離陸が始まるまで、地上展示機を見る。C-46輸送機、第二次大戦の老兵で2㌧搭載の輸送機。C-1は8㌧搭載で、輸送力が足りない、航続距離が不足、といわれるが、そのまえは、このC-46だったわけで。ちなみに、いろいろ搭載量や操縦性や航続距離が言われていたF-1支援戦闘機&ASM-1対艦ミサイルの前は、前述のF-86Fに爆弾を搭載して支援戦闘機にしていたわけで。けっこう前進したのでは、と思ったり。

Img_6975 F-104.単座型複座型を合わせ230機が航空自衛隊に配備された機体。1959年に導入が決定した超音速戦闘機で、地上レーダーの情報を統括するバッジシステムとの連動が実現した最初の要撃機であり、航空自衛隊に全天候要撃能力を確立させた機体である。1986年3月19日にアラート任務から退いたが、その後も無人標的機などに改修され、航空自衛隊近代化の一翼を担った。

Img_6976  F-86D。セイバードックと呼ばれるこの機体は、機首部分にヒューズE-4レーダーFCSを搭載し、全天候迎撃能力を有する機体として導入された。J47エンジンにはアフターバーナーが備えられていたものの、レーダーとともに故障が多かったとされる。武装は70㍉ロケット弾24発で、ミサイルや機関砲は装備しておらず、対戦闘機の戦闘は考慮せず爆撃機迎撃専用の機体。小牧に3個飛行隊、千歳に1個飛行隊が編成、1958年から1968年まで在籍した。性能には限界があったものの、レーダーを搭載した機体の運用は、のちのF-104運用の基礎を築いたといういみで果たした役割は大きい。

Img_6972  T-6G練習機。ノースアメリカン社製で17096機が生産された傑作練習機。航空自衛隊にもG型149機を中心に167機が運用され、映画ファンには「太平洋の嵐」などに旧軍機役で出演したことでも知られている。1964年に国産のT-1練習機を後継機として練習機としての現役を退いたが、捜索救難機や連絡機として1970年まで現役にあった。なお、写真のように、保存機には直接触れてみることができる。このほかにも多数の保存機が余生を送っている。

Img_7195  保存機を撮影し、滑走路南側にある模擬店の屋台で補給をしていると、多機種大編隊の飛行が始まるようだ。カメラを滑走路に向ける、すると、先ほどとは打って変って、陽光に銀色の機体を輝かせ、蒼穹の大空に上昇してゆくC-1FTBの姿が見えた。輝く機体と轟音が吸い込まれるような青空、そう、順光の撮影位置に展開した写真だ。多機種大編隊の写真は次回掲載予定、お楽しみに。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文および写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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