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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

憲法と自衛隊 その相互関係と展望

2006-05-18 20:13:26 | 国際・政治

 研究科に入り、既に梅雨の時期を迎えようとする中で、小生は以前に増して様々な議論を行う中に在る。これまでの議論という知的交流の狭間から、得た若しくは考察したものを、憲法改正議論が盛んな中で、私見として憲法と自衛隊の関係性について言及したい。

■最高裁判断

 先ず第一に、憲法は実定法ではないため、その運用に関しては最高裁判所の判決が優先されるという事で、付随的違憲審査制(具体的な事件に関連して憲法に関する判断を行う制度)を採る中で、今日まで一度も自衛隊の存在や自衛隊法を憲法違反とした判例が無い事を重視しなければならない。

 一方で、判例自体が少ない為恐縮であるが、最高裁判所が合憲とした事も無く、統治行為論として政治に差し戻している為、内閣法制局の判断が優先する。これは黙示的な違憲判決と解釈する事も、同時に黙示的な合憲解釈とすることも出来るのだが、最高裁判所という性格上、極度に政治的要素を含む判決を行う際には、その正統性を問われる事例である為致し方ないと小生はみている。

 対して、国際法は自衛権を認めている。国際法の観点ではユスコーゲンス(強行規範)と国際司法裁判所に判断された国連憲章は、その二条四項において武力行使禁止条項を記載しつつも、その例外事項として国連憲章五十一条に自衛権の保持を明記しており、少なくとも国連憲章制定後は主権国家は自衛権の概念に基づいて武力紛争を実施してきた。ただし、自衛する権利を有しているのであり、自衛する義務を有しているのではないという点が重要であり、この履き違えを行うと論理転換となるため、備考として此処に記した。

■憲法前文に示された積極的平和主義の姿勢 

日本国憲法は特に憲法九条二項において軍事力の不保持を明記している唯一の憲法である。

 しかしながら、この規定は戦争に対する忌避ともとれる多分に消極的なものであり、対照的なものが日本国憲法前文の記載である。

“日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。”

 上記はその一部分を抜粋したものであるが、この文面からも見られるように、平和な世界を創造するという積極的平和主義の観点が記されている事が興味深い。恐怖と欠乏とは、まさに平和学者ヨハンガルトゥングが言うところの構造的暴力であり、平和の維持とは平和構築の為他ならないもので、九条の示した忌避とは相対的な印象を覚える。こうした観点から、無論その手法は異なるものの、九条と前文の内容に矛盾点ではないものの若干の相違点が見受けられる。

■近代国家における軍隊

 人類史とは古代史から近代史、現代史にいたるまで闘争の歴史であったという事は疑いようの無い事実であり、特に他者に対して排他的であるのは動物は勿論のこと、人体を構成する細胞であっても侵入者にたいしては攻撃を加えるものである。

 したがって、生物としての特性と、国家乃至その本質に準じた形態を採る限りにおいて武力紛争は無くならない訳であり、国家主権を維持する為には軍隊乃至本質的に準じる軍事機構が必要である。特に、国家間の国際関係において様々な概念が存在する中でも軍事力というものは基本的本質的な主柱である。

 一方で、近代国家の主流は立憲主義にあり、憲法に基づきその国家体制の指針と、国民の人権保護を明確に規定している。即ち、人権保護や国民の権利確保に憲法は重要な地位を占めている事が、憲法の最高法規性を担保しているものである。

 日本国憲法は、近代国家に含有された二つの暴力、家庭内での暴力と国家による暴力を憲法24条、憲法九条において明確に禁止した点にその特筆されるべき点があるが、こうした立憲体制そのものを、権威的、若しくは政治過程を超越した危険から防護する、つまり外国勢力による干渉から立憲主義を担保する事が、近代国家における軍隊と憲法の関係であると小生は理解している。

■憲法と自衛隊

 憲法が定める人権規定、それを外部的干渉から防護する事が近代国家における軍隊の役割であると前項において理解するならば、少なくともその需要がある限り軍事力の保有は日本国憲法全体の中で当然内包されていると理解するべきであろう。

 云わば、憲法が機能停止となることを抑止する方策として、わが国には自衛隊があると理解するべきだ。

 対して、憲法上許容されている自衛権、という概念に対しては判断が難しい。Aマハンが記した「海上権力行使論」においては戦時においても通商を維持する事の重要性を述べているが、こうした限り、少なくとも通商により成立しているわが国にあって、その軍事力の必要性は極めて広域的に展開すると同時に、脅威概念とは平時にあっては確立しがたい為、究極的には外洋海軍力を国際協調の下で保持するという手法以外に政策的対応策が見出せない。こうした観点は、憲法の視野よりもむしろ経済力に起因する方策にて解釈する事が妥当であろう。

 国際法上の自衛権とは、個々人に付与されたものではなく、国家機関説的となり恐縮ながら主権国家に対して付与されたものである。対して、その自衛権は武力行使や武力攻撃というかたちで発動されるものを除けばNBC兵器以外、地域的な取り組みを除けばコントロールされていないのが今日の国際法体系であり、結局のところ日本が保有しうる軍事力とは国際関係の微妙な均衡体制に起因するものを除き、やはり内因的なものによって決定すると考えられる。

 結果、その形態や規模は立法府の裁量に任されていると提示した上で、日本国憲法の下で自衛隊はその確立した地位を保持できると考える。

■革新勢力との関係性

 今日では革新勢力と明記することはやや陳腐な印象を与えるものであるが、本論、特に最高裁判決の項目を見れば、「自衛隊は憲法違反だ!」との主張は本質的に誤りである事が言えよう。個々人が憲法の明文化されたものから連想するものとは異なり、自衛隊は違憲ではないという最高裁に判断を一任された内閣法制局の解釈が憲法九条の解釈であるからだ。

 一方で、こうした革新勢力の主張は、アイディンティティ喪失を感じざるを得ない。というのも、憲法違反だから自衛隊に反対、というならば憲法が改正されたときには後々に主戦派を形成する可能性を内包している。Aアーレントの「自由からの逃避」ではないが、判断能力を有しているものならば異口同音に盲従するのではなく、主体的意志を以て理論展開をするべきではないのだろうか。

 この点、右か左かの単純な二元論に陥り、具体的な安全保障に関する議論を忌避してきた野党、国際政治や安全保障に関係する研究から逃避した様々な団体の責任は大きいといえよう。

 HARUNA

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