ハリソン君の素晴らしいブログZ

新旧の刑事ドラマを中心に素晴らしい作品をご紹介する、実に素晴らしいブログです。

『さびしんぼう』

2018-12-26 12:00:25 | 日本映画









 
劇場公開は1985年で、もう30年以上も前なんですねぇ…… 私がちょうど20歳の時で、この映画について語ること自体がもはやノスタルジー。

皆さんご存知でしょうけど、大林宣彦監督が撮られた『転校生』(’82)『時をかける少女』(’83) そして『さびしんぼう』が映画ファンの間じゃ「尾道三部作」と呼ばれてます。

大林監督ご自身は別に三部作として意識されてたワケじゃなく、たまたま故郷の尾道を舞台に、思春期の男女を主役にしたSF要素のある青春映画を3作、近い時期に創った事から結果的にそう呼ばれるようになったんですね。

そしてこの3本は、大林監督の膨大なフィルモグラフィーの中でも間違いなく、最も脂が乗ってる時期に生まれ、その類い稀なる感性と才能が結実した3作品じゃないかと私は思ってます。

『転校生』は尾美としのりさんと小林聡美さんの身体が入れ替わっちゃう話で、後にTVドラマ化されたり亜流作品も後を絶たないエポック作となりました。ATG系の作品で、BGMにクラシック音楽を使ってるのはサントラを創る予算が無かったからだそうですw そんな苦肉の策とは思えないほど、クラシックが作品にマッチしてました。

奇天烈なコメディに見えるけど、身体が入れ替わった事で男女がお互いの事を知り、同時に自分自身を知り、相手を思いやる気持ちを学び、最後に元通りになった時にはちょっと大人になってるという成長物語なんですよね。

男子になった聡美さん、女子になった尾美さんの演技がどちらも素晴らしく、おそらく聡美さんが可愛いオッパイを出した唯一の作品でもありましょう。2007年には大林監督自らによるリメイク作で当時新人の蓮佛美沙子さんが主演に抜擢されました。

続く『時をかける少女』はアイドル映画の最高峰として、今や伝説の作品となりました。何度となく再映画化、TVドラマ化され、殊に細田守監督によるアニメ版(’06)は傑作だったと思います。

この’83年版は「角川3人娘」の1人としてデビューした原田知世さんをフィーチャーした、予算も潤沢な角川映画にしてバリバリのアイドル映画であるにも関わらず、大林監督の作家性が炸裂しまくってるんですよねw

原作は言わずと知れた筒井康隆さんのSF小説でタイムトラベル物なんだけど、それが尾道を舞台にしたノスタルジックなメロドラマになっちゃうとは、筒井さんもさぞやビックリされた事でしょうw

しかし本作の原田知世さんは本当に素晴らしかった! 「けなげ」「いたいけ」「はかなげ」といった形容詞が服を着て歩いてるみたいな、理想の「初恋」を我々(昭和世代)に想起させてくれる存在感。

相手役は早々と引退しちゃったイケメン高柳良一さんだけど、棒読み台詞のカップルを「幼なじみ」というポジションからサポートし支えてくれたのが、いつも通りに自然体な尾美さんでした。

そして東宝映画の『さびしんぼう』です。私はテレビ放映で初めて『時かけ』を観て強い衝撃を受け、その直後に公開された本作は劇場で観ました。(松田聖子&神田正輝の『カリブ・愛のシンフォニー』と2本立てでした)

原作は『転校生』と同じく山中恒さんの児童小説なんだけど、本作はよりノスタルジックと言うか、大林監督が自らの思春期を回想してるみたいな感じがしました。画面もセピアっぽい色調ですからね。

昔を懐かしむような作品が嫌いな方もおられるかも知れません。私も、ただ甘ったるいだけのノスタルジーは好まないんだけど、思春期の「痛さ」「残酷さ」を深刻ぶらずに描いた作品は大好きなんですね。

尾道三部作はまさにそういう作品で、特に『さびしんぼう』は片想いの切なさが痛々しいほどに描かれてます。『転校生』も『時かけ』も最後には別れが待ってるんだけど『さびしんぼう』の主人公ヒロキ(尾美さん)に至っては2人のヒロインと続けざまに別れなきゃならないという残酷さ。

1人目のヒロインは、ヒロキがいつもカメラの望遠レンズで眺めてる女子校の窓辺で、放課後いつもピアノを弾いてる清楚な美少女=百合子(富田靖子)。

冒頭、ファインダー越しに見える百合子の横顔を捉えた映像を観た瞬間に、私は心を鷲掴みにされちゃいました。

名前も知らなければ、声すら聴いた事がない女の子。だけどヒロキには、彼女が弾いてる曲がショパンの「別れの曲」である事だけは分かるんです。

BGMも冒頭から「別れの曲」をモチーフにした切ないメロディーで、これが叶わぬ恋である事を既に予感させてるんですよね。映画が始まってから数十秒で既に、私の涙腺は決壊しそうになりましたw

そんなストーカーみたいな真似しなくても、さっさと会いに行ってYou、コクっちゃいなよ!って、そういうような事をおっしゃる方は、今すぐ私の飛行機から出てって下さいw

すぐに仲良くなって、簡単に付き合って簡単にチョメチョメして簡単に別れちゃう。そんな即物的な恋愛にロマンはありません。

「相手にしてくれなくていい……僕は彼女をじっと見つめているだけで充分だ」

こういう感覚は’80年代当時でも既に時代錯誤だったかも知れないけど、大切にしたいもんです。眼が合っただけでドキドキし、一言でも言葉を交わしたら夢心地、手でも触れようもんならしばらく手を洗わないみたいな、恋ってヤツはそういうもんであって欲しいですよホントに。

見方によっちゃ確かに、危ない覗き魔のストーカーですw だけど尾美さんがやると陰湿な感じがしないし、尾道の素朴な風景が浄化してくれてます。

さらに、そんな尾美さんを冷やかしに来るクラスメート2人が幼稚なほどに無邪気なんですよね。小学生のわんぱくトリオがそのまんま大きくなった感じで。

映画の前半はその3人を中心に、かなりスラスプティックなコメディとして進んで行きます。『転校生』もそうだったけど、主人公達の日常がかなりノーテンキな世界として描かれてるんですよね。

それはたぶん大林監督の計算で、前半が楽しければ楽しいほど、後半の残酷さや切なさがより心に突き刺さるし、主人公が痛い恋を経験する事によって、ただ楽しいだけの「少年」時代を卒業するんだって事を、前半と後半とのギャップで観客に伝えてるんだと思います。

そんな前半の空騒ぎに加担し、やがて台風の目になるのが、2人目のヒロイン=自称「さびしんぼう」(富田靖子、2役)。

ヒロキの部屋に忽然と現れたピエロ姿の少女「さびしんぼう」は、なぜかヒロキの事なら何でも知ってて、どうやら彼に恋をしてる。ヒロキも「さびしんぼう」も、それぞれ一方通行の叶わぬ片想いです。

……と、思いきや、ヒロキの家の前で百合子の自転車が壊れるという、奇跡のようなチャンスが彼に訪れます。で、ヒロキは壊れた自転車を押して彼女の自宅近くまで送って行くんだけど、それがフェリーを経由するほど遠いんですよねw だからお話する時間がタップリある。

百合子の方も、戸惑いながらも嬉しそうに見えて、けっこういいムード。夢のような時間を過ごし、手応えも感じたであろうヒロキは、ウキウキしたまま翌朝、フェリー乗り場で百合子を待ちます。

ところが到着した百合子は無言で、明らかに彼を避けて通り過ぎて行っちゃう! この場面こそ、完全にヒロキと私自身がシンクロした瞬間でしたw

私に限らず、男なら多かれ少なかれ似たような経験があるんじゃないでしょうか? えっ、なんで? 昨日はあんなに笑ってたのに!?っていう、驚きと戸惑いと絶望と。

私にとって女性とは、そういう存在です。女心ってやつが本当に解んない。これだけは多分、永遠に解らない事でしょう。

ところがバレンタインデーには百合子からお礼のチョコレートが届き、納得がいかないヒロキはフェリーに乗って彼女に会いにいきます。

そこでヒロキは、どうやら人に知られたくないシビアな家庭の事情を、百合子が1人で背負ってるらしい事を知ります。彼女は恋愛などしてられる境遇じゃなかったワケです。

「やっぱり、送ってっちゃいけない?」

「いけない……」

「そう……」

「……あなたが好きになってくれたのは、こっちの顔でしょ? どうか、こっちの顔だけ見ていて……反対側の顔は見ないで下さい……」

こっちっていうのはつまり、ヒロキが望遠レンズで見つめてた彼女の横顔です。ヒロキを嫌いじゃないからこそ、影になってる側の顔は見られたくないのでしょう。本当に切ない別れです。

で、ヒロキが打ちひしがれながら家に戻ったら、今度は「さびしんぼう」との別れが待っていた。彼女は、誕生日が来るから去らなきゃいけないと言います。

「この私はね、16歳の私なの……17歳の私にはなれないの……」

雨に打たれ、ヒロキの胸に抱かれたまま「さびしんぼう」は忽然と消えてしまいます。現れた時と同じように……

この、たたみかけるような別離の連鎖はキツかったw 全編に流れる「別れの曲」がまた切なくて、私は映画館で友人が隣にいるにも関わらず号泣しちゃいました。

これは単に失恋しただけの話じゃなくて、無邪気でいられた少年時代との決別も意味してるんだろうと思います。

「さびしんぼう」が消えた翌日、ヒロキのお母さん(藤田弓子)が誕生日を迎えます。ヒロキもお母さんも気づいてないけど、どうやら「さびしんぼう」はお母さんの分身で、16歳の時の彼女が時空を越えて現れた姿なのでした。

お母さんもまた、16歳の時にヒロキという名の男の子に恋をしたらしく、叶わなかった想いが形になって現れたのかも知れません。

実は『さびしんぼう』という映画は近親相姦の物語で、実質の主人公はお母さんだった!……てな解釈も出来ますが、それより大林監督が一番描きたかったのは、やっぱり「人を好きになること」「人を想うこと」の素晴らしさ、だったんじゃないでしょうか?

「ひとを恋することは、とってもさびしいから、だからあたしはさびしんぼう。でも、さびしくなんかないひとより、あたし、ずっと幸せよ」

それがあるからこそ、人は成長して行けるんですよね。

いつもながら、ファンタジックな要素を含んだアップダウンの激しい物語を、尾美さんは地に足の着いた演技で見事に支えてくれてました。

そして清楚な美少女(百合子)とボーイッシュでやんちゃな女の子(さびしんぼう)の2役を演じ分け、どちらもとびっきりキュートなキャラクターに仕上げて見せた、弱冠15歳(当時)のアイドル女優=富田靖子さん。

『転校生』は小林聡美さんの、『時をかける少女』は原田知世さんの、『さびしんぼう』は富田靖子さんの、それぞれ間違いなく10代の代表作だと私は思います。その才能をいち早く見抜き、開花させちゃう大林宣彦って人は、やっぱり凄い!

「尾道三部作」は’80年代を代表する青春映画であり、特に当時10~20代だった映画少年にとっては忘れ得ぬメモリアルで、多くの創り手たちに影響を与えた金字塔でもあります。

だけど、大林監督ご自身には全くそんなつもりが無くて、ただ撮りたい映画を撮られただけに過ぎないんですよね。特に「さびしんぼう」っていうモチーフは監督が10代の頃から温めてたもので、純粋に個人的な想いだけで創られた映画なんだとか。

それが思いもよらぬ高評価を得て、私みたいなマニア気質のファン達が熱狂する様を見て、監督は本当に驚かれたんだそうです。で、その理由を以下のように分析されてました。

「映画というのは結局、個人の想いでしかない。個人の想いが強ければ強いほど逆に普遍性を持って、百人が観れば百人それぞれの個人的な映画になる、という事ですね」

まさにそういう事だろうと、僭越ながら私も思います。そしてそれは、現在のメジャー映画に著しく欠けてる要素なんですよね。

製作委員会(つまり複数のスポンサーが出資を分担する事により、映画がコケた時のリスクを軽減する)体制がすっかり定着したお陰で、不特定多数に受け入れられる無難な映画しか創れない状況になっちゃった。

だから創り手1人の想いだけで映画を撮るなんて事はもう、現在のメジャーシーンでは有り得ないワケです。不特定多数を意識し過ぎて、かえって誰も共感出来ないような作品ばかりが増える一方です。

『さびしんぼう』みたいにごく個人的な作品が東宝の映画館で全国公開されてた時代と、日本映画が大盛況と言われながら中身はスカスカなテレビ局映画ばかり公開されてる現在と、どっちが観客にとって幸せなのかは言わずもがなです。

そこを嘆き出したら止まんなくなっちゃうのでやめときますが、とにかく創り手も観客も互いに幸せを味わえた、尾道三部作は理想的な作品じゃないかと私は思います。

長文になっちゃったけど、こんな駄文じゃこの映画の素晴らしさが1%も伝わらない事でしょう。百聞は一見に如かず。未見の方は是非ともご覧頂ければと思います。

もちろん、なにせ大林監督の個人映画ですからw、感性が合わない方もいらっしゃるでしょうが、尾美さんや富田さんら現在も第一線で活躍されてる俳優さん達の、瑞々しい10代の姿を見るだけでも充分に価値はあるかと思います。
 
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『HOUSE/ハウス』

2018-12-26 00:00:05 | 日本映画









 
映画ファンなら知らない人はいないであろう、1977年に公開された大林宣彦監督の劇場映画デビュー作です。

夏休みに田舎を訪れた7人の少女たちが、宿泊した屋敷の家具に次々と食べられちゃうという、まさに人を食ったようなお話のホラーファンタジー映画。

オシャレ(池上季実子)、ファンタ(大場久美子)、ガリ(松原 愛)、クンフー(神保美喜)、スウィート(宮子昌代)、メロディー(田中エリ子)、マック(佐藤恵美子)と、7人の少女にそれぞれのキャラを表した片仮名ニックネームがついてるのは、もしかすると当時人気絶頂だった『太陽にほえろ!』をパロったのかも?(後の大林映画『金田一耕助の冒険』でも刑事たちが太陽に向かって吠えたりします)

とにかく遊び心に溢れた映画で、随所に寒いギャグが仕込まれてるしw、意図的にリアリティーが無視され、テーマらしきものも見当たらない。少女たちが家に食われる、ホントただそれだけの映画なんですよねw

ゆえに賛否両論、こんなの映画じゃない!って怒る観客も少なからずいた一方で、辛気臭くて説教臭い当時の日本映画に辟易してた観客、特に子供たちから熱狂的な支持を受け、結果的には大ヒット。現在じゃカルト映画として海外でも高く評価されてます。

私自身は、ある程度カルトも楽しめる年齢になってからの初観賞で、何もかもが「過剰」な演出といい、徹底して「手作り感覚」の特撮といい、とにかく「普通じゃない」大林監督の感性がめちゃ面白い!って思う反面、あまりにシンプル過ぎる内容に眠気を抑え切れないのも、まぁ正直なところ。

だから後の尾道三部作ほど好きにはなれないんだけど、当時まだ新人だった池上季実子さんや松原愛さんの初々しいヌード、そして神保美喜さんのショートパンツからはみ出たプリっプリのお尻&白い生脚には、萌えますw なにせ大林監督は「脱がせ」名人としても知られる方です。

そういうことも含めて、いきなりデビュー作からやりたい放題やられたイメージが強いけど、大林監督ご自身がデビュー作で本当に撮りたかった映画は、なんと『花筺(はながたみ)』なんだそうです。

そう、大林監督が余命半年のガン宣告を受けながらも撮影を続行し、完成させた最新作。不謹慎ながら遺作になるかも知れない映画に、大林監督はデビュー時に実現出来なかった企画を蔵出しされたワケです。

'77年当時の邦画界は既に斜陽のどん底で、『花筺』みたいに地味でヒットの見込みが薄い企画は、まず通らない。で、世界的に大ヒット中だった『ジョーズ』みたいな企画ならどうだ?って事で、大林監督が当時13歳だった娘さんとアイデアを出し合って生まれた企画が、この『ハウス』なんですね。

ところが、いったん企画を通した筈の東宝が、なかなかGOサインを出してくれない。業を煮やした大林監督は、フットワークの軽いニッポン放送に企画を持ち込み、豪華キャストによる長時間ラジオドラマの『ハウス』を生放送。更に複数の人気雑誌でマンガ版『ハウス』を連載させる等、当時の邦画界じゃ前例が無かった「メディアミックス」の手法で話題を作り、会議室の連中の重すぎる腰を遂に上げさせた。

作家性の強さが印象深くて見落とされがちだけど、実は戦略に長けたプロデューサーとしても、大林宣彦という人はずば抜けてたワケです。自ら積極的にメディア露出される映画監督としても先駆者ですよね。

で、そんな大林さんのやり方に強く共鳴し、いち早くタッグを組もうと名乗り出たのが、このあと邦画界を席巻することになる時の風雲児=角川春樹さん。それが『金田一耕助の冒険』や『ねらわれた学園』『時をかける少女』等へ繋がっていくワケです。

それもこれも『ハウス』というチョー個性的なデビュー作があればこそで、もし大林さんが希望通りに『花筺』で劇場デビューされてたら、映画監督としての立ち位置はかなり違ってたかも知れません。

だから、今こそあらためて「反戦」のメッセージを伝えたい気持ちと同時に、もしかすると「あの時『ハウス』を撮らなかった大林宣彦」っていうパラレルワールドの自分を見てみたくて、大林さんは『花筺』の映画化を40年越しで実行されたのかも?

ガン宣告はクランクイン直前に受けたみたいなので、企画段階じゃ「これを遺作に」なんて意図は無かったでしょうが、一ファンとして絶対に見逃しちゃいけない作品であることは間違いなさそうです。

思えば、我らが多部未華子さんの劇場映画デビュー作(宮部みゆき原作『理由』)も、大林監督が撮られたんですよね。そして日本映画のマイ・フェイバリット中のフェイバリット『さびしんぼう』も。

本当に偉大なクリエイターです。私にとっての「日本を代表する映画監督」は、黒澤明さんでも小津安二郎さんでも宮崎駿さんでもなく、大林宣彦監督です。
 
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