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詩篇41篇

2010年02月19日 06時07分14秒 | 詩篇
 ダビデは病の中で、神の約束を思い浮かべる。「あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。…必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる」(申命15:7,8,10)神は「弱っている者に心を配る人を、わざわいの日に助け出される」というのは、旧約聖書の約束に基づいたものである。ダビデは病の中で、神のあわれみに寄りすがった。そして、神の約束に寄りすがったのである。神は私たちに多くのことを約束されている。それはしばしば新約においても変わらない。「あわれみ深い者は幸いです。その者はあわれみを受けるからです」(マタイ5:7)とあるように、私たちは、神の約束を根拠に、神の助けと救いを求めることができる。
 私たちは病の中で、どんどん、希望を失っていくものであろう。病んだ身体に、心が蝕まれて、心も病んでいく。悲しみと苦しみの中で、気持ちはどんどん否定的になり、素直ではない、ねじ曲げた心になっていくことがある。
 そして人に、「とっととくたばれ。早くあの世に行ってしまえ」(5節)「どんな病気か知らんが、もうすぐお陀仏さ。二度と起き上がれるもんか」(8節)と思われていることほど悲しい現実もないだろう。自分の生が否定される。病の苦しみの中で、自分の存在が疎まれていく、それほど心を挫くこともないだろう。
 仕事上の試練の中で、友人の励ましが支えとなったことがある。忠実に仕える部下の働きが支えとなったことがある。夕食の祈りを共にささげる家族の存在が励ましとなったことがある。しかし、それらが取り去られ、すべて敵に囲まれるとしたら、私たちはどこに生きる力を見いだしたらよいのだろうか。実際、病気の苦しみよりも、身の不幸を願う敵に囲まれることの苦しみの方が激しいものだろう。ダビデの姿は、神のあわれみと約束に、私たちが支えを求め続けるべきことを教えている。
 たとえ、親しい友すら自分に対して毒矢を射抜こうという事態が生じたならば、親しい家族も、友も、自分の助けにならない状況が生じたのならば、それは、イエスの身にも起こっていたことであり、神そのものに支えられる時があることを、私たちは知らなければならないのだろう。9節は、ヨハネの福音書にも引用されている(13:18)。目に見えない神と共に乗り切らねばならぬ時というものがある。孤軍奮闘のようでありながら、神が共におられる恵みをいよいよ味わう時である。神が確かにおられて、私たちの側に立っておられ、助けとなられることをいよいよ知るべき時である。
 私たちの神は物言わぬ神ではない。偶像の動けぬ神、心通わぬ神ではない。生きた愛の神に支えられることを、私たちは学ばなくてはならない。そのようにして初めて、人は強くなれるのではないか。神が、ご自身を豊かに表してくださるように。神が確かに、今日も皆と共にいて、誠実を尽くしている一人一人を勅支え、立たせてくださるように。そして神にとこしえからとこしえまで、栄光の賛美を帰すことができるように。今日も一人一人の歩みのために祈る。

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