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詩篇76篇

2019年12月31日 06時37分58秒 | 詩篇
76篇 ヤコブを愛される神
 おはようございます。今日の詩篇も、私たちの心に深く、染み入るように語り掛けてくる内容です。神はヤコブの神。能力ある者、力ある者ではなく、無力で、ただ主に寄り縋る他知恵無き者の神です。その神の助けを期待し、祈りましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
 七十人訳聖書では、「アッシリヤについて」という表題がある。つまり、66篇、75篇と同様、イスラエルが神の介入によって、強国アッシリヤから奇跡的に救い出された出来事を背景としている(2列王記19:35-37)、と考えられている。明らかに神がもたしてくださった勝利を歓喜する歌、というわけである。しかし、時代的に見ていくと、詩篇の表題は増加する傾向にあったと考えられている。だから、ヘブル語オリジナルの原文(マソラ本文)にないにも関わらず、ギリシャ語に翻訳された七十人訳にある表題は、疑わしい。
実際、2節、シャレムはエルサレムの古い呼び名であるし、ダビデの時代と考えるこ友可能で、いつの時代のものであったかは、あまりはっきりとはしない。
2.神の威力への賛歌
3節、神は、敵の火矢を砕き、武装を解除された。4節、二行目「獲物で満ちる山々」は、新共同訳は「餌食の山々」と直訳調である。ヘブル語の原語ではタレフ。テイト、レイシュ、ペイの三つの文字で構成されるタレフという単語の内、最後のペイを文字形の似ているメムに読み換えると、ツェレムで「永遠」という意味になる。そこで、ギリシャ語七十人訳では「永遠の山々」、口語訳でも「永久の山々」と訳している。
これらの訳語の違いをどう考えるか。実際口語訳の「永遠の山々にまさって光栄あり、威厳がある」とはどういう意味だろうか。イスラエル人にとってシオン、エルサレムは、永遠の山々に違いないので、そこからそれ自体に優る威厳、と言いたいのだろうか。とすればエルサレムが守られた、それはエルサレムが素晴らしいのではない、エルサレムを守られる神である、と意味にもとれる。新共同訳の「あなたが、餌食の山々から光を放って力強く立たれるとき」とはどういう意味だろう。敵の戦士が、シオンの山にしかばねとなって積み重なっている様を眺めながら、まさにシオンの山で敵を餌食とし、エルサレムの神殿に凱旋された神の威力を覚え、敵の力に優るその神の威厳を讃えよ、ということだろうか。前後の文脈からすれば、どうも獲物は、5節打ち破られた豪胆な者たち、勇士たちの言いかえのようでもあるので、それが自然な解釈にも思われる。実際英訳(Today’s EnglishVersion)の「神よ、あなたはなんと輝かしいことか。なんと素晴らしいことか。あなたの敵を打ち負かしたその山より帰り来る時に」と思い切った意訳は、そのような解釈を支持しているようだ。新改訳2017の「獲物に満ちる山々にまさって威厳がある」も基本的に同じような考えではないか、と思うが、ひょっとすると、自然の山々を眺め、そこに、シカやクマ、狩りの対象となる獲物に満ちた山々、その山々に優る神の存在、という印象もありうる。「獲物」と訳された単語タレフの意味は、よくわからないが、大事なことは、1-7節の全体から神の威力を感じることなのだろう。
そして注目したいのは、神はイスラエルの神ではなく、ヤコブの神、と呼ばれたことである。ヤコブは愛されるような人ではなかった。野心があり、人間的な弱さを持ち、何の取り柄もなく、窮地に至っては神以外に頼るものもなかった。神はそんなヤコブの味方となってくださった、という。ならば、人には粗末に見捨てられるような自分を感じていることがあれば、神はそんな自分の味方になってくださると思うことができる。不思議なことであるが、愛されない者の側に立って、愛されない者を叩きのめそうとする敵を打ち破ってくださる、神がいる、と語る著者のメッセージをよく受け止めることだと思う。
この歳になり、様々人間諸相を見て、思うことがある。人間の縁は不思議なものである。傷や痛みを持っていて、それによって引かれて縁が結ばれ、必ずしもその傷や痛みが癒されるのではなく、益々お互いに痛めつけ、苦しめ合うことで毎日が成り立っているような状況があったりする。そしてある日それは破綻する。お互いにそれを望んでいるわけではないし、実際には、そのようなところから解放されたい、とは思いつつ、お互いに正直にそのような現実に向き合うこともできないし、そこを克服していくこともできない。なんとも人間というのは、寂しくも悲しく弱い存在であると思わされることがある。だが、たとえ人間がそのような現実を持とうとも、神は、その人間を拒否するのではなく、その人間を愛し、人間が人間であることを喜びとし、立ちゆくようにしてくださるお方であると言わなくてはならない。聖書の神は、立派な者の神ではないし、お利口者の神でもない。ましてお金持ちの神でもエリートの神でも、力ある者、能力ある者の神でもない。ヤコブの神である。力や権力に任せ暴虐無人な振る舞いをする者を叱りつけ、全く人々からはどうでもよい、と思われている、いやどうでもよく扱われてきた人々を救ってくださる、というのは、なんと人の痛みを感じ、人の気持ちを汲んでくださる、素晴らしい神ではないか、ということだ。
3.主を信頼し、主に誓いを果たせ
「天からあなたの宣告が聞こえると、地は恐れて沈黙しました。神が、さばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられたそのときに。」(8,9節)「地上の貧しい者たちをみな」とある。現実社会を見る時に、貧しい者に何の幸いがあると言えるのだろうか。しかし、この時、神はその貧しい者に目を留め、味方になってくださったのだ。そして、屈強な最強の軍隊も一網打尽にされてしまったのだ。その歴史的現実に詩人は注目させようとしている。
そうであればこそ、「あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。主の回りにいる者はみな、恐るべき方に贈り物を献げよ。」(11節)、という。私たちが貢物を治めるべきお方は、この方である。私たちが同盟を組むとしたら、あるいは従属するとしたら、この方をおいて他にはない。私たちが忠誠を尽くすならば、この方にこそ尽くすべきである。人は、自分を相手にもしないような者に助けを求めがちである。そして一層自分の無力さを思い知らされ失望と悲しみを深めてしまう。本当に心を開くべきお方は、ヤコブの神、貧しい者たちを救われる神であろう。目に見えない神の業にかけてみよう。


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