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詩篇76篇

2013年06月27日 06時42分54秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 七十人訳聖書では、「アッシリヤについて」という表題がある。つまり、75篇と同じ背景で書かれたものなのだろう。強国アッシリヤから不思議な神の介入で救い出されたイスラエル。まぎれもなく神がもたしてくださった勝利を歓喜する歌となっている。
時代からすれば、すでに北のイスラエル王国は滅亡している。だからユダとイスラエルは同じ意味で用いられている。これは、一行目と二行目が同じ意味を繰り返し補足する、同意語並行法と呼ばれる詩的表現として見てよいのだろう。シャレムはエルサレムの古い呼び名。そこで神は、敵の火矢を砕き、武装を解除された。4節二行目「えじきの山々」は、新共同訳も同じように、「餌食の山々」と直訳調に訳して、意味が取りにくい。ヘブル語の原語では、タレフ、三つのアルファベットで構成される文字の内、最後のペイを文字形の似ているメムに読み換えると、ツェレムで「永遠」という意味が読み取れる。実際ギリシャ語七十人訳では「永遠の山々」、口語訳でも「永久の山々」と訳している。ダニエルは、神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。~神はご自身に光を宿す」(ダニエル2:20-23)と神を賛美している。こうした視点から考えれば、永遠という読みも外れてはいないだろう。あるいはある英訳(Today’s EnglishVersion)のように、「神よ、あなたはなんと輝かしいことか。なんと素晴らしいことか。あなたの敵を打ち負かしたその山より帰り来る時に」と思い切って意訳しても、前後関係から訳し過ぎになることもないだろう。「剛胆な者」つまり、敵の戦士は多くの戦利品を得ようと立ち向かってきたが、彼らは、今はしかばねとなり眠りこけ、彼ら自身がそのすべてをはぎ取られている(5節)。ヤコブの神が、敵の兵士をみな立ち滅ぼしたというわけである。
<夜のディボーション>
 預言者ナホムも語る「だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる」(ナホム1:6)。神の威力、神の力が賛美される。神は勝利を与えてくださる、と。しかし、注目しよう。神はヤコブの神である。ヤコブは愛されるような人ではなかった。野心があり、人間的な弱さを持ち、何の取り柄もなく、窮地に至っては神以外に頼るものもなかった。神はそんなヤコブの味方となってくださった、という。ならば、同じように、人には粗末に見捨てられるような私たちの味方にもなってくださるだろう。不思議なことであるが、私たちの側に立って、私たちに立ち向かう敵を打ち砕いてくださる。「あなたの宣告が天から聞こえると、地は恐れて、沈黙を守りました。神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。」(8,9節)「地上の貧しい者たちをみな」とある。貧しい者に何の幸いがあるだろう。しかし、神はその貧しい者に目を留め、味方になってくださる。そして、屈強な最強の軍隊も一網打尽にされてしまう。
そうであればこそ、「あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。主の回りにいる者はみな、恐るべき方に、贈り物をささげよ。」(11節)、という。私たちが貢物を治めるべきお方は、この方である。私たちが同盟を組むとしたら、あるいは従属するとしたら、この方をおいて他にはない。私たちが忠誠を尽くすならば、この方にこそ尽くすべきである。人は、自分を相手にもしないような者に助けを求めがちである。そして一層自分の無力さを思い知らされ失望と悲しみを深めてしまう。本当に心を開くべきお方は、ヤコブの神、貧しい者たちを救われる神であろう。目に見えない神の業にかけてみよう。
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