生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(37) 博多から東西南北の古代遺跡へ(その5)西へ

2018年03月07日 15時36分25秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(13)
場所;福岡県  年月日;H30.2.18

テーマ;古代九州王国     作成日;H30.3.2 アップロード日;H30.3.7                                                       
TITLE:博多から東西南北の古代遺跡へ(その5)西へ
 
博多から西へは、地下鉄の延長で唐津までのローカル線を楽しんだことがあるのだが、今回は波多江という駅で下車した。そこは、海辺のリゾート地となってしまった糸島半島の付け根の中央部で、全体が伊都国ブームになっているという。伊都国は魏志倭人伝の国の一つとしての認識しかなかったのだが、どうやら邪馬台国よりも重要な国だった、との話に興味をそそられ出かけることにした。

目的は翌日に伊都文化会館で終日おこなわれる「第4回伊都国シンポジウム、伊都国人と文字」というシンポジウムを聞くためなのだが、今日はその予習として、この地の「伊都国歴史博物館」を訪ねることにした。
 昼食後に出発して2時過ぎに波多江着。やはり、バス便は当分なく、仕方なくタクシーに乗った。運ちゃんは親切で終始観光案内に夢中。途中に古墳やら名所があり、そこへ寄りたいようだったが、こちらは歴史博物館で少しでも多くの時間を過ごしたい。乗車前に聞いたとおりに¥1500で到着。



歴史博物館は、予想通りに田舎の畑の中にしては規模が大きく、見所が多くあった。しかし、何よりも、帰りのバスが心配で先ずはそれを確認。幸い、少し歩けば丁度良い便があった。




受付には、多くの関係冊子があり、目移りがするほどだったが、中の一冊「伊都国の王都を探る」という記念特別展のかなり厚い冊子を求めた。中身は4章に分かれており、古代の地形と地政学から始まり、発掘物から、かなり豊富な推論が示されていた。つまり、魏志倭人伝当時の海外交流の中心地だったというわけである。古代伊都国の交易の場としての繁栄は、どうやら現在とは地形が違ったらしい。海面が今よりの高く、入り江が沢山ある。
 残念ながら、ここでもすべての展示物も説明も撮影禁止。仕方なく、最上階の休憩所に併設の図書置き場の本を眺めた。




2時間弱のゆっくりとした見学の後で、博物館を出て歩き始めた。学校のわきを抜け、橋を二つ渡る。「高祖」というバス停はすぐに見つかった。




目の前に神社と城跡があるので覗いた。看板を見て驚いた。続日本記によれば、この城は天平勝宝時代に大宰府の長官だった吉備真備が作った山城だそうだ。当時はかなりの規模だったことが書かれているが、今は面影がない。




1日5本のコミュニティーバスは時刻通りに来たが、案の定他に客は無し。先ほどの波多江をとおり、
肥前前原の駅前までの道中、地元が長い運ちゃんはいろいろと教えてくれた。糸島半島から博多までの帰路はこの道しかなく、土曜日の夕方の反対車線は延々と大渋滞だった。夏のシーズンにはさぞ大変なのだろう。




 翌日は10時からのシンポジウムだ。参加者は地元の超お年寄りが90%だろうか。市長さんの地元自慢から話が始まった。
 講演は大学教授(元、現、準)が数名、交代での発表で話は面白かった。
・伊都国から日本の古代を考える
・伊都国の外交
・対外交渉における文字使用
・博多湾沿岸における文字資料
・最近の邪馬台国研究と文字文化
といった題名であった。




今日のメインテーマは、最近発掘された当時の硯の半分の欠片から始まったようなのだが、果たしてそれが文字使用にどうつながるのかは、正直分からなかった。通過した中国か朝鮮人が割れたので置いていったとも考えられる。いや、その方が自然だ。彼らが旅の途中で日記などを書くには、硯の携行が必須だったはずだ。一方で、当時の伊都国人が本当に文字を使用していたのならば、鏡の文様だけではなく、当時の土器や古墳にも書き残されているのではないだろうか。文字は記録を残すためのものなのだから。硯硯の数も、一人に一つ必要であり、相当なくてはならない。



地元のお年寄りには大うけなのだが、私にとっては、なんとなく、しっくりといかないシンポジウムの講演であった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿