引野寺ノ西北地区は、上板町役場の西南西約1.5kmのところ
上板町役場の北西側道路を西南西へ、県道139号船戸切幡上板線です
約1kmで「⇐三好・阿波県道12号線」の標識に従って左(南)へ
約200mで宮川内谷川の宮川内谷橋の手前を斜め右の土手道へ入ります
約200mの三叉路は右へ、約300mのゴミ集積所前交差点を右(北)へ
約200mで道路南側の駐車場(写真の左側)に入りました
向かい側(道路北側)には広い安楽寺駐車場と公衆トイレがあります
山門の楼門です
「四国6番 安楽寺」です
裏面には・・・
四国へんろ五百度福田祐峯先達は、当町阿波国板野郡上板町高瀬の生まれにして、平成10年より思うところありて、四国へんろを志ざさる。
以来11年晴れの日ばかりにあらず、雨の日、風の日あるも一徹なるへんろ行を重ねらる、持ち前の気力と強い意志はすさまじく、一ヶ寺一ヶ寺一日一日の積み重ねで五百の回を数え、ついにへんろの道に生き、大師に行かされる心境とならる、ここに岡山市那須暉峰(テル子)先達を世話人となし、記念の石を建立す。
小納今も過去にも五百の数を越えたるを聞かず、こい願わくば此の勝行をめぐらし、弘法大師の教えを現世にかざして、永く世を照す道しりべとならんことを。
平成22年春 安楽寺貫主 畠田秀峰
*凄い人がいるものです
日本遺産プレートです
山門を入ると手水舎です
池の畔にお大師様のです
多宝塔の屋根が見えました
参道を進みます
説明版です
四国霊場第六番札所温泉山安楽寺の由来
平安時代前期・宏仁6年(815)弘法大師四国霊場御開創のみぎり、大師当地において42才の大厄のがれられ(さかまつの由来)自ら薬師如来の尊像を刻み、精藍を建立、安楽寺と命名だれた。
山号を温泉山と号し、弘法大師が我が国に温泉湯治の利益を伝えた全国でも珍し旧跡である。
「四国遍礼霊場記」元禄2年(1689)〈寂本著〉には「相遂来て医王の神化を人みな仰ぎ、寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し、鈴鐘のひびき絶る時なし。」と記され、安楽寺谷川の滝の行場や瓦が出土する古代寺院跡、雨宝堂とよばれている庵、神社、平安時代の線刻仏等、周辺に史跡が点在し、当時の広大な寺域が想像できる。
この地は安楽寺谷川の水源と辺りの森を神とし、早くから開けた土地で「日置の荘」(引野)と呼ばれる広大な荘園であった。
南北朝時代・天授5年(1379)熊野新宮に寄進され、熊野の山伏(六坊)が熊野権現を祀った。
近世となり、仏式の葬式等丁寧に先祖を祀る習慣が定着すると、安楽寺はこの荘域に檀家を持つようになる。
安土桃山時代・慶長3年(1598)蜂須賀家政公の御信仰篤く、阿波の国主として入国するや、当山を駅路寺(官寺)と定め庇護された。茅葺の方丈(登録有形文化財)が当時を物語っている。
神仏分離、廃仏毀釈の歴史を経ても信徒の恩顧深く四国霊場六番札所、温泉のある宿坊として現在に至っている。
当寺は灌頂窟という道場を有す。願わくば参籠し、くす供養を以て先祖を廻向し自らも仏道を成ぜんことを。
本堂です
温泉山の額が懸かります
右手に登録有形文化財の方丈です
方丈の西側(本堂の北側)大師堂ですが写真を撮り漏れていました
納経所に寄って、次へ行きましょう
2024・6・8・8・50
上板町役場の北西側道路を西南西へ、県道139号船戸切幡上板線です
約1kmで「⇐三好・阿波県道12号線」の標識に従って左(南)へ
約200mで宮川内谷川の宮川内谷橋の手前を斜め右の土手道へ入ります
約200mの三叉路は右へ、約300mのゴミ集積所前交差点を右(北)へ
約200mで道路南側の駐車場(写真の左側)に入りました
向かい側(道路北側)には広い安楽寺駐車場と公衆トイレがあります
山門の楼門です
「四国6番 安楽寺」です
裏面には・・・
四国へんろ五百度福田祐峯先達は、当町阿波国板野郡上板町高瀬の生まれにして、平成10年より思うところありて、四国へんろを志ざさる。
以来11年晴れの日ばかりにあらず、雨の日、風の日あるも一徹なるへんろ行を重ねらる、持ち前の気力と強い意志はすさまじく、一ヶ寺一ヶ寺一日一日の積み重ねで五百の回を数え、ついにへんろの道に生き、大師に行かされる心境とならる、ここに岡山市那須暉峰(テル子)先達を世話人となし、記念の石を建立す。
小納今も過去にも五百の数を越えたるを聞かず、こい願わくば此の勝行をめぐらし、弘法大師の教えを現世にかざして、永く世を照す道しりべとならんことを。
平成22年春 安楽寺貫主 畠田秀峰
*凄い人がいるものです
日本遺産プレートです
山門を入ると手水舎です
池の畔にお大師様のです
多宝塔の屋根が見えました
参道を進みます
説明版です
四国霊場第六番札所温泉山安楽寺の由来
平安時代前期・宏仁6年(815)弘法大師四国霊場御開創のみぎり、大師当地において42才の大厄のがれられ(さかまつの由来)自ら薬師如来の尊像を刻み、精藍を建立、安楽寺と命名だれた。
山号を温泉山と号し、弘法大師が我が国に温泉湯治の利益を伝えた全国でも珍し旧跡である。
「四国遍礼霊場記」元禄2年(1689)〈寂本著〉には「相遂来て医王の神化を人みな仰ぎ、寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し、鈴鐘のひびき絶る時なし。」と記され、安楽寺谷川の滝の行場や瓦が出土する古代寺院跡、雨宝堂とよばれている庵、神社、平安時代の線刻仏等、周辺に史跡が点在し、当時の広大な寺域が想像できる。
この地は安楽寺谷川の水源と辺りの森を神とし、早くから開けた土地で「日置の荘」(引野)と呼ばれる広大な荘園であった。
南北朝時代・天授5年(1379)熊野新宮に寄進され、熊野の山伏(六坊)が熊野権現を祀った。
近世となり、仏式の葬式等丁寧に先祖を祀る習慣が定着すると、安楽寺はこの荘域に檀家を持つようになる。
安土桃山時代・慶長3年(1598)蜂須賀家政公の御信仰篤く、阿波の国主として入国するや、当山を駅路寺(官寺)と定め庇護された。茅葺の方丈(登録有形文化財)が当時を物語っている。
神仏分離、廃仏毀釈の歴史を経ても信徒の恩顧深く四国霊場六番札所、温泉のある宿坊として現在に至っている。
当寺は灌頂窟という道場を有す。願わくば参籠し、くす供養を以て先祖を廻向し自らも仏道を成ぜんことを。
本堂です
温泉山の額が懸かります
右手に登録有形文化財の方丈です
方丈の西側(本堂の北側)大師堂ですが写真を撮り漏れていました
納経所に寄って、次へ行きましょう
2024・6・8・8・50
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