河原浜町は、前橋市役所の東北東柏10km、前橋市大胡庁舎の北東約200mのところです
前橋市大胡支所南側の「おんたけ坂」を東へ下り、「大川橋西詰」信号を左(北)へ
約250mの「城山橋」の所を左(西)へ入ります
トンネルが見えて来ます
トンネル入り口右手に「大胡城跡」の石碑です
左手には城跡の斜面が城壁となっています
トンネルを潜って右手に石段がありますが、真っ直ぐ進んで二の丸に車を止める事が出来ました
大胡城二の丸の標柱です
二の丸から本丸南西側土塁と本丸西側の空堀を見ました
南東側から本丸南側の空堀です
説明版です(斜めなのは太陽が反射していた為です)
群馬県指定史跡 大胡城跡
所在地 前橋市河原浜町660-1
指定年月日 昭和42年2月2日
城郭は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を持つ。
枡形門、水ノ手門虎口、空濠、土塁等の跡が良く残っている。中世上野の名士である「大胡氏」が拠ったと言われている。
天正18年(1590)徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡領2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。
牧野氏は、元和2年(1616)に越後(新潟県)長峰へ、そして長岡へと転封された。
以後、大胡城は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2年(1749)酒井氏が姫路へ転封し際し、廃城となった。
二の丸南西側には、橋の欄干が集められています
附近に「水の手門」があったようです
二の丸南東側には
「枡形門跡」です
石垣が残ります
北側です
西側です
二の丸南東側から大胡の街(南側)を見下ろしました、前橋市大胡支所のある場所は、城の三の丸だったようです
*現在トンネルになっている所は、土砂崩れ防止のために空堀をトンネルにしたようになっています。本丸出入には、ここに木橋を架けていたのではないでしょうか
戻って、トンネルそばの石段を本丸へ上ります
石段を上がりました
大胡城本丸です
本丸南西側土塁は高さ約3mの高土塁です
本丸東端から南側です
東側です
北側には赤城山の裾野広がっています
本丸北側にはカスリン台風による被害者の慰霊之塔です
水害記念碑です昭和22年(1947)9月14日~15日に大胡では荒砥川が土石流となって多くの死者が出ています
*この台風による死者は1077人、行方不明者は853人、負傷者は1547人となりました(理科年表) 。 その他、住家損壊9298棟、浸水384743棟 、耕地流失埋没12927 ha など、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらしました。
北側の空堀です、この先にも北城や大胡神社のある近戸曲輪などが続きます
神社のようですがお名前が分かりませんでした
すぐ西側に記念碑です
記念碑
大胡城墟碑
貴族院議員従三位勲三等子爵牧野忠篤撰弁篆額
大胡城者藤原秀郷八世孫大胡次郎成家之所築也成
家無子第重俊嗣稱大胡太郎任官左馬助歿在十四日
逸年月其後子孫相継居於此至常陸介高繁移武州牛
込天正十八年牧野右馬允康成来治於此慶長十四年
十二月十二日歿子忠成嗣元和二年十二月移封於越
後長峰而城墟焉爾後属前橋城主治下荒廃經年遂為
竹林徒留城山之稱巳
王政維新後為官有地明治七年春前橋藩士秋田啓太
郎請官購有之明治三十一年十二月二十四日啓太郎
歿所養女波留嗣後有故将以城山地貿貨河原濱村民
相謀鳩金一千三百圓買之約永久不轉賣於是山林一
町七段七畝十九歩為本村共有財産寶明治四十年四
月四日也至今年更議建碑記顛末以論後昆云
大正七年二月乙午之日 大竹勝衛敬書
*二の丸の説明版より詳しく書かれていますね
本丸の西側の土塁が切られています
本丸西側の空堀です
北西側の空堀です
では、次へ行きましょう
前橋市大胡支所南側の「おんたけ坂」を東へ下り、「大川橋西詰」信号を左(北)へ
約250mの「城山橋」の所を左(西)へ入ります
トンネルが見えて来ます
トンネル入り口右手に「大胡城跡」の石碑です
左手には城跡の斜面が城壁となっています
トンネルを潜って右手に石段がありますが、真っ直ぐ進んで二の丸に車を止める事が出来ました
大胡城二の丸の標柱です
二の丸から本丸南西側土塁と本丸西側の空堀を見ました
南東側から本丸南側の空堀です
説明版です(斜めなのは太陽が反射していた為です)
群馬県指定史跡 大胡城跡
所在地 前橋市河原浜町660-1
指定年月日 昭和42年2月2日
城郭は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を持つ。
枡形門、水ノ手門虎口、空濠、土塁等の跡が良く残っている。中世上野の名士である「大胡氏」が拠ったと言われている。
天正18年(1590)徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡領2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。
牧野氏は、元和2年(1616)に越後(新潟県)長峰へ、そして長岡へと転封された。
以後、大胡城は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2年(1749)酒井氏が姫路へ転封し際し、廃城となった。
二の丸南西側には、橋の欄干が集められています
附近に「水の手門」があったようです
二の丸南東側には
「枡形門跡」です
石垣が残ります
北側です
西側です
二の丸南東側から大胡の街(南側)を見下ろしました、前橋市大胡支所のある場所は、城の三の丸だったようです
*現在トンネルになっている所は、土砂崩れ防止のために空堀をトンネルにしたようになっています。本丸出入には、ここに木橋を架けていたのではないでしょうか
戻って、トンネルそばの石段を本丸へ上ります
石段を上がりました
大胡城本丸です
本丸南西側土塁は高さ約3mの高土塁です
本丸東端から南側です
東側です
北側には赤城山の裾野広がっています
本丸北側にはカスリン台風による被害者の慰霊之塔です
水害記念碑です昭和22年(1947)9月14日~15日に大胡では荒砥川が土石流となって多くの死者が出ています
*この台風による死者は1077人、行方不明者は853人、負傷者は1547人となりました(理科年表) 。 その他、住家損壊9298棟、浸水384743棟 、耕地流失埋没12927 ha など、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらしました。
北側の空堀です、この先にも北城や大胡神社のある近戸曲輪などが続きます
神社のようですがお名前が分かりませんでした
すぐ西側に記念碑です
記念碑
大胡城墟碑
貴族院議員従三位勲三等子爵牧野忠篤撰弁篆額
大胡城者藤原秀郷八世孫大胡次郎成家之所築也成
家無子第重俊嗣稱大胡太郎任官左馬助歿在十四日
逸年月其後子孫相継居於此至常陸介高繁移武州牛
込天正十八年牧野右馬允康成来治於此慶長十四年
十二月十二日歿子忠成嗣元和二年十二月移封於越
後長峰而城墟焉爾後属前橋城主治下荒廃經年遂為
竹林徒留城山之稱巳
王政維新後為官有地明治七年春前橋藩士秋田啓太
郎請官購有之明治三十一年十二月二十四日啓太郎
歿所養女波留嗣後有故将以城山地貿貨河原濱村民
相謀鳩金一千三百圓買之約永久不轉賣於是山林一
町七段七畝十九歩為本村共有財産寶明治四十年四
月四日也至今年更議建碑記顛末以論後昆云
大正七年二月乙午之日 大竹勝衛敬書
*二の丸の説明版より詳しく書かれていますね
本丸の西側の土塁が切られています
本丸西側の空堀です
北西側の空堀です
では、次へ行きましょう
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