板倉区別所地区は、上越市役所の南南東約16km、上越市板倉区総合事務所の南東約3kmのところ
総合事務所前信号を南へ、約300mの針信号を左(東)へ県道95号線です

約2kmで県道右手に「焼山城跡」の幟が出ています

説明版があります、道路脇に
車を止めさせて頂きました
焼山城址案内
永禄7年(1564年)上杉謙信の命により景勝が養子になった際、養護係として魚沼上田城(樺沢城)執事であった宮島三河守吉煕一族が1万石の武将として春日山城に着任、長男宮島若狭守吉房が氏祖の地宮島集落に館を構え曾根田焼山には山城を構え信濃から関田峠越えんお監視の任務にあたった。
文録2年(1593年)9月に亡くなり、子宮島与八郎吉則が二代目1030石城主となったが慶長3年(1598年)上杉家の会津移封に伴いこの任が終わった。

じゅんさい池まで車で入ります


謙信公根越三城将供養堂跡です
三城将とは、曾根田焼山城主 宮島若狭守吉房と別所小嶽山城主 高梨源五郎、福王寺御殿平城主 福王寺彦八郎孝重です

途中には畑が広がっています、先の交差点からは林道になります

軍用道路(馬道)の観音堂と庚申塔入口です、焼山城跡の幟が並びます

右手にじゅんさい池です

左手(東側)へ100mですので本丸跡へ行ってみました

杉林の中を進みます

杉林を貫けます

緩く登って行きます、斜面にはスミレの群落です



チゴユリの群落です

石碑が在ります

焼山城本丸跡の案内板です

天保14年(1843)10月建立と思われる石碑には、宮島若狭守吉房之城跡とあります

焼山城本丸跡の標柱です

切岸状の斜面です

本丸跡から北東側を望みます、木々が無かった戦国時代には関田峠からの道(現県道95号線)が見えたはずです


土塁らしき地形も確認出来ました


焼山城本丸跡から少し南側の板倉区栗沢の林道から西側に、日本百名山の妙高山・火打山と二百名山の焼山です

その北側にはスキー場の有る大毛無山などの標高1400m前後の山々が望めました
では、次へ行きましょう

2023年4月22日午前9時25分訪問です
総合事務所前信号を南へ、約300mの針信号を左(東)へ県道95号線です

約2kmで県道右手に「焼山城跡」の幟が出ています


説明版があります、道路脇に

焼山城址案内
永禄7年(1564年)上杉謙信の命により景勝が養子になった際、養護係として魚沼上田城(樺沢城)執事であった宮島三河守吉煕一族が1万石の武将として春日山城に着任、長男宮島若狭守吉房が氏祖の地宮島集落に館を構え曾根田焼山には山城を構え信濃から関田峠越えんお監視の任務にあたった。
文録2年(1593年)9月に亡くなり、子宮島与八郎吉則が二代目1030石城主となったが慶長3年(1598年)上杉家の会津移封に伴いこの任が終わった。

じゅんさい池まで車で入ります



謙信公根越三城将供養堂跡です

三城将とは、曾根田焼山城主 宮島若狭守吉房と別所小嶽山城主 高梨源五郎、福王寺御殿平城主 福王寺彦八郎孝重です

途中には畑が広がっています、先の交差点からは林道になります


軍用道路(馬道)の観音堂と庚申塔入口です、焼山城跡の幟が並びます


右手にじゅんさい池です


左手(東側)へ100mですので本丸跡へ行ってみました


杉林の中を進みます


杉林を貫けます


緩く登って行きます、斜面にはスミレの群落です




チゴユリの群落です


石碑が在ります


焼山城本丸跡の案内板です


天保14年(1843)10月建立と思われる石碑には、宮島若狭守吉房之城跡とあります


焼山城本丸跡の標柱です


切岸状の斜面です


本丸跡から北東側を望みます、木々が無かった戦国時代には関田峠からの道(現県道95号線)が見えたはずです



土塁らしき地形も確認出来ました



焼山城本丸跡から少し南側の板倉区栗沢の林道から西側に、日本百名山の妙高山・火打山と二百名山の焼山です


その北側にはスキー場の有る大毛無山などの標高1400m前後の山々が望めました

では、次へ行きましょう


2023年4月22日午前9時25分訪問です
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