ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

長野県長野市、妻科「妻科神社のケヤキ群」(保存樹林)です!!

2021-07-12 06:38:00 | 巨樹・大木
 妻科地区は、長野市役所の西北西約2kmのところ

 長野県庁の東側の通りを北へ二つ目の信号が「妻科入口」です、西に進むと右手に妻科神社が南向きに鎮座します

 境内の駐車スペースに車を止めさせて頂きました


境内入口です

妻科神社です

鳥居のすぐ先にケヤキの巨木です

西側から「千寿」という名前のようですが、他の数本には名前の札が貼られていますが、見つかりませんね~

北側から

東側から、目通り幹囲7.1mの巨木です

保存樹林標識です、指定第122号昭和51年11月5日指定です

手水舎です

境内左手駐車スペースのケヤキです「雷」の札が貼られています

境内から二段上に拝殿です

拝殿です

拝殿の左手にもケヤキの巨木です「右大臣」の札が貼られています

拝殿右手には「縣社昇格記念」の灯籠です

更に右奥には天神社です

本殿は更に上に在るようですが、社殿右側からは行けないようです

筆塚です

説明版です
  筆塚の由来
 中央院は神社西の坂道から西へ少し上がった左側に、修験道の寺として護摩堂・庫裏・墓がありました。
 中央院の歴史は古く、浄海上人を開祖として以来清僧でしたが、江戸時代後期の石黒修験は里修験で家族を持ち世襲となりました。
 石黒修験は江戸幕末期に寺子屋旭日亭を開き、塾生を教育し地域の人材育成に貢献しました。寺子屋の師匠は身分・教養・社会的地位が高く、塾生は筆子と呼ばれ教養・書道・和漢学・俳諧・謡曲等を学びました。
 授業料は志程度で多くの若者が学び、教育的レベル・識字率は世界一と評価されています。
 明治3年、神仏分離令により空前絶後の文化破壊が行なわれ、中央院も廃寺となり仏塔やお地蔵さんの首が欠けた形跡が残されていました。明治8年、番屋跡に門人たちが石黒修験の徳を偲んで筆塚を建立しました。台石に門弟中とあり、多くの塾生の師匠への感謝の想いが伝わってきます。
 令和2年道路改修のため、筆塚を天神社の隣に移設しました。その際、将来筆塚が天災にも耐えられるよう、特別に台石や石柱を補強しました。
 中央院に関わる墓碑は、石黒利兵衛氏の累代子孫の誠意により、以来百二十年余、恙なく守られてきました。
  妻科区(顧問 徳武昭治郎 記)


境内北東端のケヤキの巨木です「遊木」の札が貼られています

根元には石塔や祠が並びます


境内東端のケヤキです、名前は貼られていませんね~


拝殿前右手に「御百度詣数取」です、算盤玉のような球を動かして数を数えていたのですね


左には大釜です、防火用水をためていたのでしょうか、後ろには消火器収納庫が見えています

本殿を覗くことが出来ました

境内西側の社務所前のケヤキです「けや太郎」お名前が貼られています


西側を廻って本殿の高さまで登って来ました

本殿です

本殿裏側のケヤキです

では、次は「井上醸造」へ歩いて行きましょう




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