上蕨岡地区は、出羽一之宮の三つある社の一つ、鳥海山大物忌神社蕨岡口の宮のあるところ
遊佐町役場の南東約4kmのところ
国道354号線を南へ、県道373号線を東へ進み、天狗森の上り坂を西から東へ登りヘアピンカーブを東から西へ向きを変えて昇って行くと、上蕨岡(上寺)入口の案内板が有ります(参道を上がってきたところです)
ここの道路脇にまず
車を止めさせて頂きました

上寺案内図です(大物忌神社前に有ります)
一の鳥居から真っ直ぐに上がって行く参道が高度を稼ぐために「くの字」に曲った所にケヤキが在ります

案内板です

坂道の上に目的のケヤキです




道路脇の広場状になった所にケヤキ、目通り幹囲6.5mの巨木です




東側から、太い注連縄が掛けられています




上(南東)側から、根元に洞が出来ています

向かいの石段が神社の参道です

大泉坊長屋門です

説明版です
大泉坊長屋門
この長屋門は、天保5年(1834)、当家4代目竈賢翁(1804~1868)が創建した。翁は、夙に京都に在って歌道に精進しその奥義をきわめた。宮廷にも出入して公卿衆に和歌を指導した。皇居の歌会に召されて詠歌することもあった。これらの功により長屋門建設が許された。門は総欅造り、切り妻平棟門で軒の飾り瓦には菊の紋章が施されている。ほかに釘を用いない工法など特技が見られる。
元来、長屋門は、国持大名の江戸屋敷の外辺に造られた。国許から出府する家臣や奉公人の住居としたものであった。それぞれ格式により、十万石以上では、左右に唐破風か、切り妻の出番所が付いた門、分家で五万石以上は片出番所と片出格子が付いた門、一万石以上では左右に出格子が付いた門と定められていた。
この門は、棟までの高さ四間(7.27m)、間口十一間(20m)、奥行二間半(4.55m)、建坪27坪半(90.75㎡)。優に一万石以上の格式に並ぶ構えである。
平成15年4月21日
大泉坊長屋門保存会
遊佐町教育委員会

長屋門前からケヤキを見下ろしました

神社に向かいましょう
遊佐町役場の南東約4kmのところ
国道354号線を南へ、県道373号線を東へ進み、天狗森の上り坂を西から東へ登りヘアピンカーブを東から西へ向きを変えて昇って行くと、上蕨岡(上寺)入口の案内板が有ります(参道を上がってきたところです)
ここの道路脇にまず


上寺案内図です(大物忌神社前に有ります)

一の鳥居から真っ直ぐに上がって行く参道が高度を稼ぐために「くの字」に曲った所にケヤキが在ります

案内板です


坂道の上に目的のケヤキです





道路脇の広場状になった所にケヤキ、目通り幹囲6.5mの巨木です





東側から、太い注連縄が掛けられています





上(南東)側から、根元に洞が出来ています


向かいの石段が神社の参道です


大泉坊長屋門です


説明版です
大泉坊長屋門
この長屋門は、天保5年(1834)、当家4代目竈賢翁(1804~1868)が創建した。翁は、夙に京都に在って歌道に精進しその奥義をきわめた。宮廷にも出入して公卿衆に和歌を指導した。皇居の歌会に召されて詠歌することもあった。これらの功により長屋門建設が許された。門は総欅造り、切り妻平棟門で軒の飾り瓦には菊の紋章が施されている。ほかに釘を用いない工法など特技が見られる。
元来、長屋門は、国持大名の江戸屋敷の外辺に造られた。国許から出府する家臣や奉公人の住居としたものであった。それぞれ格式により、十万石以上では、左右に唐破風か、切り妻の出番所が付いた門、分家で五万石以上は片出番所と片出格子が付いた門、一万石以上では左右に出格子が付いた門と定められていた。
この門は、棟までの高さ四間(7.27m)、間口十一間(20m)、奥行二間半(4.55m)、建坪27坪半(90.75㎡)。優に一万石以上の格式に並ぶ構えである。
平成15年4月21日
大泉坊長屋門保存会
遊佐町教育委員会

長屋門前からケヤキを見下ろしました


神社に向かいましょう

