昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

祖父の訓育

2021年06月23日 07時44分51秒 | 5 右翼青年 1974年~


幼年学校当時のもの

河野寿は明治40年 ( 1907年 )月27日、佐世保で生まれた。

父は海軍少将 河野左金太で剛直質実な人柄で、人一倍忠誠心の強い軍人であった。
寿が小学校四年の春 (8才か9才) 、熊本の碩台小学校に転入した。
通学早々の三日目のことだった。
寿が編入されたクラスに一きわ身体の大きいいかにも強そうな子がいて、
 教室内ではおとなしいのだが、遊び時間になると滅法に傍若無人ぶりを発揮していた。
どこでもあるように、弱い者をいじめてはお山の大将をきめこんでいる。
転校したての寿には、それがまことに苦々しい光景とうつったらしい。
その日の放課後の帰り道、またその子の乱暴がはじまって、弱い子がいじめられている。
寿は我慢できなくなって、その子供との間にわりこんでいった。

「 よせ ! 」
寿が大きな声で一括したのに、一たんはおどろいたその子も、
それが新入の寿であることを知って、にわかに強気になった。
帰りがけの子供がパラパラと駆けよって、
三人をとりかこむ中で、その餓鬼大将は、
自分より身体も小さく未だ勝手もわかっていない新入生がなぜ自分に抗争をいどむのか
理解できないふうににらみかえしながら、
「 何だ、生意気な 」
と履いていた下駄をすばやく片手握って戦闘姿勢をしめした。
寿は顔面を蒼白にしながら、
「 君、可哀想じゃないか。弱い者いじめはやめ給え 」 と言ったが
「 ドサを使うて何かッ。喰わすっぞ 」 といきなり下駄を振り上げた。
ドサは東京弁の意味で、喰わすっぞとは殴るぞという熊本弁である。
寿の東京言葉は、その子の反感をさらにつのらせたのだろう。
振り上げた下駄が寿の横面に鳴った。
寿は一歩後退すると、
肩からかけた鞄をはずし、そこにさしてあった竹の物差をとって、
ふたたび襲いかかる下駄をはらいのけた。
そして、そのまま竹の物差で相手の眉間をピシャリと打ったのである。
額に手をあてて退るその子の顔に赤い血が走った。
その日の夕方、学校の受持訓導から父へ、学校へ出頭するようにと使いが来た。
学校で一部始終を聞いて帰った父は、座敷に坐ると寿を呼んだ。
どんなに叱られるかと、寿はおずおず父の前に正座した。

「 今日のおまえのしたことを、お父さんは叱るつもりはない。 しかし物差でやったのは悪い。」
父の訓戒はそれだけだった。

そして、それが父だった。

・・私の二・二六事件 河野司 著から リンク→ 河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 

昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
「 やるなら拳骨でやるんだ 」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、
67年後の私も亦素直に 『 諒 』 とした
肝に銘じたのである
 


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