昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

5 右翼青年 昭和49年(1974年)~

2021年08月12日 11時50分38秒 | 5 右翼青年 1974年~

右翼青年
昭和49年(1974年)~
左翼全盛の頃
「君は右翼か」・・・そう言われた
「日本人です」・・・そう応えた

己が心懐の
日本人たるDNAを物語る

目次
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私の DNA
1970年代
「本を読む」・・は、ステータスであった頃
通勤の車内で以て、文庫本を読むのも、日常の事であった
吊皮片手に本を読んでいる者も当りまえの如く居た
「なにも、この朝の忙しい時に・・・」

十九歳の私
「文学少女には成れない」 と、諦めた中学以来
「本を読む」 に、縁遠い存在であった

昭和49年(1974年) 年頭
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に立ち寄った
先輩に つられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた
そして
並んでいる本の中に、目を引く物を見つけたのである
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如く か、必然の如く なりしか
私は、「天皇」 と、出遭ったのである

最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いついて、止まらない
「自分とは何ぞや」・・・を、発見していったのである
それは、私にとっての 「歴史上の大発見」 と、いうものであった
読みたい、との想いは
必ずや
読みたいもの、と出遭う
そう、実感した私である


男一匹 命をかけて
「静聴せよ、静聴、静聴せい」
「静聴せい、静聴せい」
「静聴せいと言ったら分からんのか、静聴せい」
「おまえら聞けぇ、聞けぇ!」
「静かにせい、静かにせい!」
「話を聞けっ!」
「男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ」
「いいか、いいか」

「それでも武士かぁ!」
「それでも武士かぁ!」 ・・・自衛官からの野次
    
昭和45年(1970年)11月25日
市ヶ谷台上で 天皇陛下万歳を三唱 して
壮絶なる死を遂げた、三島由紀夫の 「死の叫び聲」 である
軍隊とは、武士の集団であろう ・・と
武士なる、自衛隊と信じて 蹶起したのである
であるが・・
もはや、武士の魂 を 抜取られた、時代の申子 自衛隊
「檄」 を、飛ばせど
三島由紀夫の意志など、通じる筈も 無かったのである
されど
三島由紀夫の 飛ばした「檄」は、「死の叫び聲」は
私の中に潜在した 「吾は日本人」 と謂う 意識を喚起した
これぞ
私のDNA なのである

左翼思想全盛の昭和45年(1970年)に於いて
素直に そう 掬び付くことは、稀有な存在 であった
今も尚
吾々のDNA は、凍結されしまま 眠っている
これから日本が、世界の中で生存しようとするなら
凍結されし、吾々のDNA  を、解凍し
吾々のDNA に眠る
武士の魂 を 喚起する
そこれこそ
吾々日本人に求められているもの
と、私は想うのである

二・二六事件と私
昭和40年(1965年)11才                                       
「陸海軍流血史・五一五から二・二六」 との出逢いは、
何かしらん重々しいものを感じたものの、如何せ11才の私、それは幼稚なもの
昭和45年(1970年)16才                                       
市ヶ谷での三島由紀夫の自決は、16才の私の潜在意識を喚起させた
然しそれは、未だ漠然としたもので核心までは至らなかった
そして、
昭和49年(1974年)19才
『自分が日本人である』 という潜在意識の核心を はっきりとを自覚した私
『日本人とは如何』・・・この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなった
それは、逢うべくして逢ったのである
蹶起の青年将校こそ、『純真無垢の日本人である』・・そう確信したのである
神達の言動を知るにつき
それらは、私自身の昭和の記憶 として
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである

四-1
超国家主義

多感であった19歳の私が、亦、自分を磨かんとして磨いていた私が、これ等と出遭い
憧れを感じる程に、素直に受け入れたのである
これ等は、慾すればこその出逢い、と謂えよう

私は、これ等を 慾するところ慾するが儘に読んだ
そして、私はこれらを精読、浄書することで、私の中に眠るDNAを読み取っていたのである
まさに、どこをどう読むかは、その時点に於ける私自身の資質、素容そのものと謂えようか
しかし、これ等を何故そんなに 憧れたのか
亦、素直に受入れることができたかは、私自身説明できない
それは私のDNAとしか 謂い様がないのである
四-2
一つの写真との出遭い
 ・ 

歴史との出逢い

目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「ああ・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年(1974年)8月7日
二十歳の私 昭和維新の神達 と、初めて、直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった



祖父 の 遺伝子

西田 税 の、乃公自作の真理は、52年後の昭和49年(1974年)、19歳の私に届いた
「意を得たり」
これが、私の実感であった
而して 私は
祖父の遺伝子 を、しかと確認したのである



祖父の訓育
昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
やるなら拳骨でやるんだ」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、素直に『よし』とし、肝に銘じたのである

何シブイ顔して、歩いてんの!?
若き二十歳
私は眉間を寄せて、街路を歩いた
「何シブイ顔して、歩いてんの !?」  (カッコウ付け過ぎヤヨ)
バス停に向かう途中の路で、〇〇〇が、そう声をかけた
「男がヘラヘラした顔して、歩けるか」
私は、そう云い返した


尊 皇 討 奸
昭和維新の象徴である
神達は是を、合言葉にも使った
二十歳の私 は
どうしても、神達と逢いたい
そう想ったのである
昭和49年(1974年)11月25日
念願の 山王ホテル に、遂に来た
「オオーッ」
  
昭和11年2月26日
あの、尊皇打奸の旗 が、たなびいた、屋上搭屋は当時の姿のままであった
こそ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気に為ったのである
 


生涯一の大風景
  
意を決して 上って
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった
二十歳 にして
それは
生涯一の大風景であった
 
十一
覚醒しても尚、覚えている夢
徴兵制が復活した
こともあろうに 私は、最初の出征兵士となったのである
日本国最初の兵士

任期は一年
「最初だから まさかこの1年の間に戦争は起らないだろうし、そのまま満期除隊となるだろう」
 と、たかをくくっていた私は、暢気に構えていた
ところが、戦争が起きてしまった
そしてとうとう、東南アジアに派遣されることと成ったのである

十二
右翼青年

21歳(1975年)昭和50年頃の、友・平野との会話

「ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「戦争反対、唱えるしかないな」
「北海道に攻め入ってきて、日本人が殺されているんやで、それでも、戦争反対唱えるのか?」
「俺は戦いに行く」
「勝ち目ないで、ソ連には敵わん」
「日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか?、占領されたら、どうするんャ」
「白旗挙げて降伏する、戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、死んで、残った家族どうなるんャ
  降伏しても、命までは取らんヤロ」
「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
「死ぬよりましヤデ」
「お前、本当に、そう思っているのか?・・・」
十三
「サークル」

夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない
彼等は、真剣に 「憂国」 を、語り合っていると謂う
軽々しい
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう
彼等が、そんな覚悟を持っている 筈は無い
十四
あの時はもう帰らない

昭和50年(1975年)11月24日
神達の面影を求めて、一人、大東京へ

霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
是、素晴らしき風景哉
「オオッー」
「万歳、万歳、万歳」

十五
男のロマン 1975
男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

次頁
6 バブルの頃 昭和62年(1986年)~昭和64年(1988年)
に続く

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