右翼青年
昭和49年(1974年)~
左翼全盛の頃
「君は右翼か」・・・そう言われた
「日本人です」・・・そう応えた
己が心懐の
日本人たるDNAを物語る
目次
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一
私の DNA
1970年代
「本を読む」・・は、ステータスであった頃
通勤の車内で以て、文庫本を読むのも、日常の事であった
吊皮片手に本を読んでいる者も当りまえの如く居た
「なにも、この朝の忙しい時に・・・」
・
十九歳の私
「文学少女には成れない」 と、諦めた中学以来
「本を読む」 に、縁遠い存在であった
・
昭和49年(1974年) 年頭
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に立ち寄った
先輩に つられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた
そして
並んでいる本の中に、目を引く物を見つけたのである
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如く か、必然の如く なりしか
私は、「天皇」 と、出遭ったのである・
最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いついて、止まらない
「自分とは何ぞや」・・・を、発見していったのである
それは、私にとっての 「歴史上の大発見」 と、いうものであった
読みたい、との想いは
必ずや
読みたいもの、と出遭う
そう、実感した私である
二
男一匹 命をかけて
「静聴せよ、静聴、静聴せい」
「静聴せい、静聴せい」
「静聴せいと言ったら分からんのか、静聴せい」
「おまえら聞けぇ、聞けぇ!」
「静かにせい、静かにせい!」
「話を聞けっ!」
「男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ」
「いいか、いいか」
・
「それでも武士かぁ!」
「それでも武士かぁ!」 ・・・自衛官からの野次
・
昭和45年(1970年)11月25日
市ヶ谷台上で 天皇陛下万歳を三唱 して
壮絶なる死を遂げた、三島由紀夫の 「死の叫び聲」 である
軍隊とは、武士の集団であろう ・・と
武士なる、自衛隊と信じて 蹶起したのである
であるが・・
もはや、武士の魂 を 抜取られた、時代の申子 自衛隊
「檄」 を、飛ばせど
三島由紀夫の意志など、通じる筈も 無かったのである
されど
三島由紀夫の 飛ばした「檄」は、「死の叫び聲」は
私の中に潜在した 「吾は日本人」 と謂う 意識を喚起した
これぞ
私のDNA なのである
・
左翼思想全盛の昭和45年(1970年)に於いて
素直に そう 掬び付くことは、稀有な存在 であった
今も尚
吾々のDNA は、凍結されしまま 眠っている
これから日本が、世界の中で生存しようとするなら
凍結されし、吾々のDNA を、解凍し
吾々のDNA に眠る
武士の魂 を 喚起する
そこれこそ
吾々日本人に求められているもの
と、私は想うのである
三
二・二六事件と私
昭和40年(1965年)11才
「陸海軍流血史・五一五から二・二六」 との出逢いは、
何かしらん重々しいものを感じたものの、如何せ11才の私、それは幼稚なもの
昭和45年(1970年)16才
市ヶ谷での三島由紀夫の自決は、16才の私の潜在意識を喚起させた
然しそれは、未だ漠然としたもので核心までは至らなかった
そして、
昭和49年(1974年)19才
『自分が日本人である』 という潜在意識の核心を はっきりとを自覚した私
『日本人とは如何』・・・この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなった
それは、逢うべくして逢ったのである
蹶起の青年将校こそ、『純真無垢の日本人である』・・そう確信したのである
神達の言動を知るにつき
それらは、私自身の昭和の記憶 として
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである
四-1
超国家主義
多感であった19歳の私が、亦、自分を磨かんとして磨いていた私が、これ等と出遭い
憧れを感じる程に、素直に受け入れたのである
これ等は、慾すればこその出逢い、と謂えよう
・
私は、これ等を 慾するところ慾するが儘に読んだ
そして、私はこれらを精読、浄書することで、私の中に眠るDNAを読み取っていたのである
まさに、どこをどう読むかは、その時点に於ける私自身の資質、素容そのものと謂えようか
しかし、これ等を何故そんなに 憧れたのか
亦、素直に受入れることができたかは、私自身説明できない
それは私のDNAとしか 謂い様がないのである
四-2
一つの写真との出遭い ・
五
歴史との出逢い
目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「ああ・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年(1974年)8月7日
二十歳の私 昭和維新の神達 と、初めて、直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった
六
祖父 の 遺伝子
西田 税 の、乃公自作の真理は、52年後の昭和49年(1974年)、19歳の私に届いた
「意を得たり」
これが、私の実感であった
而して 私は
祖父の遺伝子 を、しかと確認したのである
七
祖父の訓育
昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
「やるなら拳骨でやるんだ」
正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、素直に『よし』とし、肝に銘じたのである
八
何シブイ顔して、歩いてんの!?
若き二十歳
私は眉間を寄せて、街路を歩いた
「何シブイ顔して、歩いてんの !?」 (カッコウ付け過ぎヤヨ)
バス停に向かう途中の路で、〇〇〇が、そう声をかけた
「男がヘラヘラした顔して、歩けるか」
私は、そう云い返した
九
尊 皇 討 奸
昭和維新の象徴である
神達は是を、合言葉にも使った
二十歳の私 は
どうしても、神達と逢いたい
そう想ったのである
昭和49年(1974年)11月25日
念願の 山王ホテル に、遂に来た
「オオーッ」
昭和11年2月26日
あの、尊皇打奸の旗 が、たなびいた、屋上搭屋は当時の姿のままであった
是こそ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気に為ったのである
十
生涯一の大風景
意を決して 上って
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった
二十歳 にして
それは
生涯一の大風景であった
十一
覚醒しても尚、覚えている夢
徴兵制が復活した
こともあろうに 私は、最初の出征兵士となったのである
日本国最初の兵士
「最初だから まさかこの1年の間に戦争は起らないだろうし、そのまま満期除隊となるだろう」
と、たかをくくっていた私は、暢気に構えていた
そしてとうとう、東南アジアに派遣されることと成ったのである
十二
右翼青年
21歳(1975年)昭和50年頃の、友・平野との会話
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/00/c1/e5105c39e4a38c3bf2c24a5ccb95742f_s.jpg)
「ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「戦争反対、唱えるしかないな」
「北海道に攻め入ってきて、日本人が殺されているんやで、それでも、戦争反対唱えるのか?」
「俺は戦いに行く」
「勝ち目ないで、ソ連には敵わん」
「日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか?、占領されたら、どうするんャ」
「白旗挙げて降伏する、戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、死んで、残った家族どうなるんャ
降伏しても、命までは取らんヤロ」
「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
「死ぬよりましヤデ」
十三
「サークル」
夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない
彼等は、真剣に 「憂国」 を、語り合っていると謂う
軽々しい
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう
彼等が、そんな覚悟を持っている 筈は無い
十四
あの時はもう帰らない
昭和50年(1975年)11月24日
神達の面影を求めて、一人、大東京へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ce/9700a73c04f2ddc0495dd41b350614c0.jpg)
霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
是、素晴らしき風景哉
「オオッー」
「万歳、万歳、万歳」