昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

などてすめろぎは ひと となりたまいし

2015年08月15日 22時40分32秒 | 9 昭和の聖代

 
エンジンが入れられる。
爆音が高鳴る。
全速力となる。
掩護隊は敵の戦闘機に備えて隊形を開き、護衛の配備に就く。
敵戦闘機は、一せいに、放たれた羽虫の群れのように上昇してくる。
わが目標は一点のみ。
敵空母のリフトだけだ。

爆弾の信管の安全ピンを抜き、
列機に突撃開始の合図を送る。
あとは一路あるのみだ。
機首を下げ、目標へ向かって突入するだけだ。
狙いをあやまたずに。
そして、
勇気とは、
ただ、
見ることだ
見ることだ
見ることだ

一瞬も目をつぶらずに。
恐ろしい加速度で風を切る翼は、
かがやく鉄の青空を切り裂くような音を立てる。
空母はいっせいに防禦砲火を炸裂させ、
砲煙に包まれ、
寸前まであきらかに見えていたあの学校の放課後の運動場のような、
のどかな上甲板の一枚の板はおぼろに霞む。
しかしそれはひろがることを決して止めない。
一瞬一瞬、はじめ小さなビスケットの大きさであったものが、
皿になり、
盆になり、
俎板になり、
・・・・ほとんど戯れているかのように、ひろがることを決してやめずに、
・・・・テニスコートになり、
放課後の運動場になり、
そうして砲煙に包まれたのだ。
砲煙のなかに、黄いろい牡丹のように砲火が花咲く。
砲煙が薄れる。
空母は正しく、空母以外の何ものでもない空母の実体になる。

見ることだ。
眥を決して、ただ見ることだ。
空母のリフト。
あそこまでもうすぐ達する。
全身は逆様に、機体しわが身は一体になり、耳はみみしい。
痛みもなく、白光に包まれてひたすら遠ざかろうとする意識、
その顫動する白銀の線を、みること一つに引きしぼり、
明晰さのために全力を賭け、
見て、
見て、
見て、
見破るのだ。
空母のリフトは何と遠いことか。
そこまですぐに達する筈の、この加速度は何とのろいことか。

わが生の最後のはての持時間には、
砂金のように重い微粒子が詰まっている。
銃弾が胸を貫き、
血は肩を越えて後方へ飛び去った。
衝撃だけが感じられ、痛みはない。
しかしこの衝撃の感じこそは意識の根拠であり、
今見ているものは決して幻ではないことの確証だ。
そのリフトに人影が見える。
あれが敵だ。
敵は逃げまどう。
大手をひろげて迎える筈の死の姿はどこにもない。
確実にあるのはリフトだけだ。
それは存在する。
それは 見える のだ。

・・・・そして命中の瞬間を、
ついに意識は知ることがなかった。




三島由紀夫 英霊の聲

 

 

 

 


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