浜名史学

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【映画】「きみが死んだあとで」

2022-05-02 19:22:42 | 映画

 代島治彦監督のドキュメンタリー映画である。3時間20分、しかしそれでも短い気がする。1960年代後半から70年代にかけて、全国の学園で様々な問題をめぐって闘いが起こった。その背景には、ベトナム戦争があった。アメリカという巨大な国家が、最新鋭の武器を持ってベトナムに襲いかかっていた。当時、アメリカ軍の侵略に関わる映像を、私たちは見ていた。なぜそんな残酷なことがあるのか、という問い。そしてそれを突き詰めていくと、アメリカの侵略に、日本が深く関係していることを知り、そんな日本で良いのかという問いが生まれた。加害者としての日本、日本人、そして私たち、さらにこの私。その自覚が、反戦平和を求める運動に関わるきっかけとなった。

 1967年10月8日、京大生の山崎博昭くんは、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして羽田に向かうも、弁天橋で機動隊により惨殺された。

 私はこの事件を知っている。私は当時高校一年生で、学生たちのそうした闘いを報道で見聞きしていた。同時に、アメリカのベトナム侵略、それに加担する日本に対する疑問や怒りももっていた。だから学生たちのそうした運動に関心があった。

 山崎くんは中核派という組織に属していた。私は、そうした組織には加わることなく、ベ平連に関係しながら反戦平和の運動を進めていた。

 山崎くんの生と死を、当時の学友たち、とりわけ山崎くんが卒業した大阪の大手前高校の同期生らが語る。それがこのドキュメンタリーである。

 山崎くんらは校内で社会科学研究会(社研)を組織していた。私の高校にもそれはあり、私もそのメンバーであった。当然、そこで学ぶのはマルクスなどの文献であった。社会を科学的に捉えるため(ベトナム戦争のような侵略をなくすための学習という意味合いもあった)ということで、当時マルクス主義が力を持っていたのだ。

 山崎くんの死は大学一年生のときであったから、組織(セクト)の「悪」というものにはまだ接触していなかったのではないかと思う。私のまわりにはいろいろなセクトの学生がいたが、私はそれらに属している学生のある種の「独善」に疑いをもっていた。それがより過激になって、「内ゲバ」という学生同士の暴力、殺し合いが行われるようになり、また連合赤軍事件にみられるように組織内でのリンチによる殺害事件をも起こすようになった。

 今年2月24日から始まったロシアによるウクライナ侵攻、それをみて、ソ連という国家、ならびにソ連共産党もひどいことをたくさんしてきた。そのあとを継いだロシアも、ひどいことをしている。

 私はその背後に、社会主義の幻影を見てしまう。社会主義を唱えればそれは即自的に「正義」あるいは「真理」と組織内では見なされ、客観的に「悪事」を働いてもそれらを自分たちの「正義」や「真理」によって浄化してしまう、そういう傾向が、1960年代から70年代にかけての(そして今も残存している革マル派などの)セクトにもある。

 私にとっての社会主義は、ベトナム戦争反対、平和が重要だなどというヒューマニスティックな願いの延長線上にある(あった)考えである。近代日本を振り返って、幸徳秋水や堺利彦、山川均などの初期社会主義に関わった人たちもそうした気持ちをもって社会主義に近づいていったのだろうと思う。

 社会主義は「目的」ではなく、自由・平等、平和などの目的に到達するための「手段」であったはずなのに、いつのまにか、それぞれのセクトの社会主義が「目的」と化し、その「目的」と異なる「目的」をもったセクトを「敵」として殲滅を図る、そうした倒錯した世界が出現したのである。

 この映画にも、「内ゲバ」が取りあげられている。「内ゲバ」は、学生運動をはじめとした日本の社会運動にとって大きなマイナスとなった。その余韻は、今も政治的な組織には備わっているように思える。

 3時間20分、昔のことを思い出しながら見た。この映画が映し出した諸々のことは、検証されるべきだと思う。

 考えることを求めてくる映画であることはまちがいない。なお、この映画はアマゾン・プライムでみることができる。

 

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