『衝口発』は、江戸時代、藤貞幹という国学者が著したものだ。日本の神代を含めた上代について、研究したものだ。成稿は1781年である。
これに対して、本居宣長は『鉗狂人』(けんきょうじん)を著して反駁した(1785年)。この「鉗狂人」の意味は、狂人に首かせをかけるという意味である。つまり藤貞幹を「狂人」として、首かせをかけようとしたというわけだ。
宣長は、激しく憤激したのだろう。
宣長は、『古事記』の記述をほとんど歴史的事実としてみずからの考えを構築した。「漢意」をすべて除去して、「原日本」(固有の起源を持った日本)を示そうとしたから、藤の主張は許せなかった。
藤の主張は、スサノオは「辰韓の主」であるとか、「本邦の言語、音訓共に異邦より移り来たる者也。和訓には種々の説あれども、十に八九は上古の韓音韓語、或は西土の音の転ずるもの也」、「歌は韓の古俗なること明かなり」・・・というものである。中国や朝鮮の古代史と比較しながら研究した結果を記したのである。
常識的に考えて、古代日本は「漢字」にみられるように、中国・朝鮮の大陸文化と切り離すことはできない。近世においても、それが常識的な考えだったのだ。
しかし宣長は、「漢意」を除去すれば、「原日本」をつかみ出すことができると考えていたから、「原日本」に中国や韓が入り込んでいるということには耐えられず『鉗狂人』を著したのだが、その反駁はきわめて感情的なものであった。
そもそも、『古事記』そのものが「漢」や「韓」を排除して書かれたものなのだ(といっても、文化後進国日本では、漢字を使わなければならなかった)。『古事記』は8世紀初めに完成したといわれる。663年に白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗れた倭は、敗れたがゆえに、余計に意識して倭なるものを立ち上げようとした。倭をやめて国号を「日本」とした。これも、中国からみれば日本は東にあるから「日の本」だというのである。日本列島に住む者にとっては、「日の本」って何?といいたくなる。中国や韓を意識してつくった国号が「日本」なのである。
「日本」を立ち上げるために、韓や漢を離脱しようとしたのである。その意図をさらに宣長は徹底したといえるだろう。
いづこのいかなる人にかあらむ。近きころ衝口発といふ書をあらはして、みだりに大御国のいにしへをいやしめおとして、かけまくもいともかしこき皇統をさへに、はばかりもなくあらぬすぢに論じ奉れるなど、ひとへに狂人の言也。故に今これを弁じて、名づくることかくの如し
これがその本の序文である。
この宣長の言説に対して、上田秋成が反論を加えた。その詳細は省くが、秋成の科学的な指摘に対して、宣長は非理性的に反論した。
日本は世界の中心であるという日本中心主義は、その後も喧伝され、その結果としての1945年を経て、それは今も生きている。
こうした排外主義的な言説を歴史的に解き明かしながら、再び狂信的なナショナリズムが席巻しないように、注意しなければならない。
これに対して、本居宣長は『鉗狂人』(けんきょうじん)を著して反駁した(1785年)。この「鉗狂人」の意味は、狂人に首かせをかけるという意味である。つまり藤貞幹を「狂人」として、首かせをかけようとしたというわけだ。
宣長は、激しく憤激したのだろう。
宣長は、『古事記』の記述をほとんど歴史的事実としてみずからの考えを構築した。「漢意」をすべて除去して、「原日本」(固有の起源を持った日本)を示そうとしたから、藤の主張は許せなかった。
藤の主張は、スサノオは「辰韓の主」であるとか、「本邦の言語、音訓共に異邦より移り来たる者也。和訓には種々の説あれども、十に八九は上古の韓音韓語、或は西土の音の転ずるもの也」、「歌は韓の古俗なること明かなり」・・・というものである。中国や朝鮮の古代史と比較しながら研究した結果を記したのである。
常識的に考えて、古代日本は「漢字」にみられるように、中国・朝鮮の大陸文化と切り離すことはできない。近世においても、それが常識的な考えだったのだ。
しかし宣長は、「漢意」を除去すれば、「原日本」をつかみ出すことができると考えていたから、「原日本」に中国や韓が入り込んでいるということには耐えられず『鉗狂人』を著したのだが、その反駁はきわめて感情的なものであった。
そもそも、『古事記』そのものが「漢」や「韓」を排除して書かれたものなのだ(といっても、文化後進国日本では、漢字を使わなければならなかった)。『古事記』は8世紀初めに完成したといわれる。663年に白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗れた倭は、敗れたがゆえに、余計に意識して倭なるものを立ち上げようとした。倭をやめて国号を「日本」とした。これも、中国からみれば日本は東にあるから「日の本」だというのである。日本列島に住む者にとっては、「日の本」って何?といいたくなる。中国や韓を意識してつくった国号が「日本」なのである。
「日本」を立ち上げるために、韓や漢を離脱しようとしたのである。その意図をさらに宣長は徹底したといえるだろう。
いづこのいかなる人にかあらむ。近きころ衝口発といふ書をあらはして、みだりに大御国のいにしへをいやしめおとして、かけまくもいともかしこき皇統をさへに、はばかりもなくあらぬすぢに論じ奉れるなど、ひとへに狂人の言也。故に今これを弁じて、名づくることかくの如し
これがその本の序文である。
この宣長の言説に対して、上田秋成が反論を加えた。その詳細は省くが、秋成の科学的な指摘に対して、宣長は非理性的に反論した。
日本は世界の中心であるという日本中心主義は、その後も喧伝され、その結果としての1945年を経て、それは今も生きている。
こうした排外主義的な言説を歴史的に解き明かしながら、再び狂信的なナショナリズムが席巻しないように、注意しなければならない。