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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ウクライナの対立

2014-03-07 22:17:34 | 政治
 旧ユーゴのことを思い出す。異なる民族や宗教を持つ人々が混在し、なかには異民族同士で結婚もしていた。混血の人々も当然存在するだろう。

 しかし一度民族間対立が持ち上がるとそれが増幅され、今まで仲良くしていた人々が対立し、ひどい場合には殺しあいとなることもある。悲しいことだ。個人的には何ら対立する原因も存在しないのに。

 ボクはこういう異なる民族や宗教間の対立が始まる時、いつもその背後にそれを煽り増幅する人々をみる。対立を引き起こすことによって利益を得る人々だ。その扇動にのってしまう庶民がいる。

 庶民にとって、対立して得るものは、おそらくは、ない。しかしその扇動にのってしまうのだ。

 アフリカ・ウガンダでのツチ族とフツ族の殺しあいもあった。

 冷静に、理性的に考え、行動すること、人間はそれが不得手のようだ。また歴史も学ばない。

 だから人間は、何度も同じような間違いをおかす。決してよいことではないのだが・・・。

2014-03-07 13:32:44 | 読書
 三冊の本が届いた。『幕末の天皇』(講談社学術文庫)、『レイシズム/スタディーズ序説』(以文社)、『絶望の裁判所』(講談社現代新書)である。まったく相互に関連のないものだ。

 最初の本は、「近代日本に於ける「国学」」という講座の準備のために読むもの。『レイシズム・・・』は、昨今の在特会の動きや社会の各所に現れでるレイシズム的な動向を理解するため、最後は、法学部卒というボクの経歴が買わせたもの。

 最後の『絶望の裁判所』の「はしがき」を読んでいたら、「(日本の裁判所は)「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」という意味では、非常に「模範的」な裁判所なのである」とあった。著者は元裁判官。経歴を見ると、勝手にエリートコースに乗せられていたようで、それがいやで仕方がなかったという、珍しい良心の持ち主だ。

 この本は、日本の裁判所の実態や機能が、内部から見た目で解剖されているようだ。読み終わったら報告しよう。

 ところで大学時代、ボクのサークルから裁判官になったS君は、どうしているだろうか。

都知事選と『金曜日』

2014-03-07 13:13:24 | 読書
 今日は、『週刊金曜日』が届いた。先に行われた都知事選に関する記事や投稿があった。反原発を唱える候補者が一本化すべきであった、ということが尾を引いているのであるが、ボクは都知事選において、反原発候補が勝利することはないと、選挙の前から断言していた。というのも、東京都民は、1999年から石原慎太郎という人物を当選させてきたし、猪瀬直樹の際にも圧倒的多数の票を集めて当選している。東京都民は、最初から保守系の候補者を望んでいるのだ。そういう状態がすぐに変わるわけはない、と思っていた。

 しかし選挙が始まる直前、細川護煕が小泉前首相の支援を得て立候補を表明、一部の人たちが宇宮健児氏に立候補をやめさせようと動いた。これが今も尾を引いているようだ。

 ボクは、都政全般についての政策をもっている宇都宮氏が当選することが最善であると思っていたが、それは所詮無理。先に書いたとおりだ。では候補が一本化すれば当選したか。それは無理。先に書いたとおりだ。それにボクは、小選挙区制を導入した時の首相であった細川氏、格差社会を激化させた小泉前首相には、たとえ反原発になったとしても、怒りと疑問を抱いている。

 だから、反原発候補を一本化するなんて小細工はしなければよかったのだ。正々堂々とそれぞれが最初から闘う、これしかなかったのだ。

 今も、この問題で感情的しこりがあるようだが、こういうことこそ即座に忘れて「仲良く」、手をにぎりあって、反原発に邁進すべきなのだ。

 『週刊金曜日』でもいまだにこのことを論じ合っているが、そんなことよりも重大な課題がたくさんあるはずだ。論じれば論じるほど、亀裂が深まるということもあるだろう。双方が論難し合うことで、何か生産的なことが生まれるのか。

 もう都知事選の議論はやめよう。

孤独

2014-03-07 08:24:59 | 日記
 人間は、他者との関係の中で自らを定位する。自分自身がいかなる人間であるか、いかなる人間になるか、それらも他者との関係のなかでこそ明らかになる。

 だからこそ、人間にとって他者との関わりは必須なのである。

 自らを人間社会の中で定位する、という本能的欲求は、思春期のとば口にわき上がってくる。その人間が生きる環境、家庭や地域社会、学校・・人間が蠢き活動するその「現場」のただなかで、自らを他者のなかに、何らかの差異をつくり出していく。あるいは差異を見つけ出していく。他者との差異として何を際立たせるのか、それを定位する努力を続ける。もちろんその努力は一生続けられるのだが、しかしそういうことを考えはじめる「時」、「環境」は、決定的に重要なのだ。

 ボクは考える。柏市で事件を起こした男は、思春期のスタート時点はいかなる状態にあったのか。

 いくつかの報道から今考えられることは、そのスタート時点で、彼は自らのアイデンティティとして、特別な、言ってみれば露悪的なところに「差異」を見出したのではないか。彼のその「差異」は、そうであるが故に、他者の理解を得られない、したがって他者とのつながりをもてないのである。

 昨日、彼とネットを介してコミュニケートしていた人たちの声を報道で聞いた。それを聴きながら考えたことだが、彼はおそらく思春期から、前述したような「差異」を持ち、またそれに固執してきたために他者とのつながりを持てずに生きてきたのだろう。しかし、人間は他者を求める。求めざるを得ない。自らを自らと認識するためには、前述したように他者の存在は欠かせない。

 他者とのつながりを、彼はどのようにしてつくるのか、その手段として彼が持つのは露悪的な「差異」しかない。そうでないものがあるのだということを、彼は知らずに生きてきた。

 コミュニケートしていた人々の間で交わされる彼の過激な発言、奇声などは、彼とのコミュニケーションを断ち切る要因として働いた。彼が、他者を求めれば求めるほど、彼は露悪的な「差異」を強調する、それは同時に彼を孤独の世界へと誘っていったのだ。

 断ち切られた他者とのコミュニケーション。それは彼にとっては、生きている社会との絶縁ともなった。

 もちろん、人間は様々な関係を他者と取り結んでいる。しかし彼には、それがほとんどなかった。おそらく唯一であったネットを介してのコミュニケートが断ち切られた時、彼は自らの生を破壊する挙に出た。「もうどうなってもよい・・!」

 突然の凶行が行われたその時とは、彼が他者との関係を断ち切ったその時なのだ。

 彼のものすごい孤独感、ボクはそれを感じる。