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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【映画】「ハンナ・アーレント」

2014-03-18 15:34:21 | 日記
 これは必ず見ないと行けないと思い、今日は何も用事がなかったのでシネマイーラに行った。さすがに評判が高いだけに、観客も多かった。

 とてもよい映画だ。飽きさせない。とにかく観ている者は、頭をフル回転させながらみつめるしかない。

 ハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』などで有名な政治思想家である。ボクが以前書き続けていたブログの名は、「過去と未来の間」である。これもハンナ・アーレントの著作からいただいた。最近「過去と未来の間」には書いていないが、4~5年前まではそちらに書き続けていた。今でもネットで読める。

 さて映画は、ドイツ・ホロコーストの責任者であるアイヒマンが逃亡先のアルゼンチンで逮捕され、エルサレムの法廷で裁かれることとなった。ハンナ・アーレントもユダヤ人であるが、彼女はアメリカに住んでいた。雑誌に報告するということで、彼女はエルサレムに行き、そしてアイヒマンをみつめる。

 虐殺の対象となったユダヤ人にとってみれば、あるいはホロコーストを知っている世界の人々は、アイヒマンは極悪非道の悪人でなければならなかった。彼女がアイヒマンを、そういう人物として描いたなら、彼女への激しい批判は起きなかっただろう。しかし、彼女はアイヒマンのなかに「凡庸な悪」を見つけるのだ。

 アイヒマンには残虐なことをしでかした、という自覚はない。彼は命令に従って業務をこなしただけなのだ。

 ハンナ・アーレントは映画の最後で、講義を行う。そこでこう語るのだ。

 ソクラテスやプラトン以来私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。

 考えてみれば、組織の一歯車となって、思考もせず、善悪も判断せず、ひたすら上を向いて上からの命令を待っている人々は、実は無数にいる。身近でも、すぐに見つけ出すことができる。そういう者たちは、「凡庸な悪」により、悪事を働く。

 福島原発事故に関わって、東京電力や官僚、学者に、そういう典型的な人物をたくさん見出すことができた。「大規模な悪事」は、だから過去のことではないのだ。

 さてハンナ・アーレントは、もうひとつの論点を提起した。ユダヤ人指導者の一部がナチスに協力したという事実を提示したのだ。これに対して、ユダヤ人社会から激しい非難が寄せられ、彼女の友人も離れていった。

 ユダヤ人は全体として被害者であって、それ以外ではないという強固な信念。それに異論をさしはさむと、それこそ「非国民」であるかのような対応をされる。

 彼女は、思考の結果、そして理解しようとするなかで、新たに発見されたことを提示する。だがそれは、人々の従来の知識や感情と齟齬を来すものであった。

 人は、ステレオタイプの認識のままでいることに慣れている。その認識と違背するようなものは受け付けたくないのである。アーレントにも、そういう報告が期待された。しかし彼女は、自らの理解と思考をそのまま提示したのだ。

 この映画は、人々のステレオタイプ的な認識に対する批判でもあるとおもう。

 なお残念ながら、ボクは『イェルサレムのアイヒマン』を読んでいない。この本は「教養」のひとつであるにもかかわらずである。恥ずかしいことだ。人類の知的遺産は、しっかりと読んでおかなければならない。町田の住人にバカにされるかも知れない。

 すぐに注文した。しかしみすず書房の本は、高い。いい本が多いけれど・・・



覚書2

2014-03-18 09:37:43 | 近現代史
 「日本近代史に於ける「国学」」というものを考えていくと、「日本神話」が8世紀からの日本の歴史のなかに「通奏低音」となって流れているように思う。「日本神話」は、要するに「天皇制神話」であるが、「天皇制」が姿形を変えていても、基本的に存続しているというところから、「日本神話」が時代ごとに異なる様相を示しながら歴史の表面に表れてくる。

 それは戦後でも同様だ。「天皇制神話」としての「日本神話」を強調したい人は、安倍首相以下政治家諸氏、そして文科省の官僚、学者などたくさんいる。「右翼」といわれる人たちもそうである。

 「右翼」のなかに、野村秋介という人がいた。しかし彼は、「日本神話」を押し付けようという意思はなかったと思われる。彼は自らの思想を他人に強要する「右翼」ではなく、自らの思想を自らの生き方で表現しようとした人物である。

 野村秋介の『いま君に牙はあるのか』(幸洋出版、1984年)を読んでいるが、野村の「心の原点」は「万葉集」だという。天皇も庶民も分け隔てなく、「万葉集」には彼らの作歌が掲載されている。野村はそこに「国安かれ、民安かれ」という天皇の「慈愛」をみる。

 しかし野村は、権力悪と闘うことを主張する。

「我々の先輩は常に権力悪と戦ってきたし、そのことが自分たちの運動の原点である」(73)と。

 「北一輝は・・・8時間労働制を守れとか、皆に選挙権を与える、大企業の土地の専有を許すな・・・ということを言って戦前悪を倒そうとした」(74)

 野村は、「右翼」であっても、そういう「右翼」なのである。

 安倍首相のお友だちの長谷川三千子なる人物のわけのわからない文章が、野村秋介を偲ぶ本に載せられていることがわかり物議を醸したが、野村は長谷川如き人物に称えられたくはないと思っているはずだ。

 なおこの本は、野村の対談集なので、野村の思想がきちんと語られているものではない。