何ごとかを記すという行為は、それ以前に書く人間の思考過程を経ている。その思考の対象となる事物・事象をどう捉えるかは、その人間の主体性にかかっている。何ごとかを研究する、思考する、叙述するというとき、そこにはそれを行う主体の“眼差し”というものがある。その“眼差し”は、主体的であるが故に、他者のそれとまったく同一ということはありえない。
一つの何ごとかを、別々の人間が研究し、思考し、叙述するとき、そこで記されたものは同一ではない。そこにそれぞれの主体性が関わってくるからだ。
本書で、子安氏は、その“眼差し”を問う。まず俎上にあげられたのが柳田国男である。ボクは民俗学は、学問ではないと思っている一人である(確実にもう一人そう考えている人がいる。彼は町田市に住んでいる)が、柳田の民俗学が、「新国学」であり、「平民の生活」を調査することにより、「国民」を立ち上げようとする営みであることを指摘する。なぜか民俗学は歴史学より人気があるのだが、ボクは柳田の視線をどうのこうのという以前に、その方法のあまりに表面的であることに辟易したことがあるので、子安氏の内在的批判に賛同する。
次に内藤湖南や津田左右吉による「支那学」が検討される。子安氏は彼らの学問に入り込んでいる中国を蔑視する、いわば「帝国意識」(子安氏はこのことばはつかってはいない)をえぐり出す。
そして「国語」と「日本語」について、日本近代と日本帝国主義が生み出す齟齬を指摘し、戦時中の京都学派の「世界史的立場と日本」における議論をとりだし、その言説に竹内好を対置し、教科書検定や本多勝一の『中国の旅』などをもとに、「日本人の反省的な自己への視点」の欠如を指摘する。
子安氏の本は、知的で刺激的ではあるが、くり返しの説明が多く、饒舌である。饒舌は苦手だ。
一つの何ごとかを、別々の人間が研究し、思考し、叙述するとき、そこで記されたものは同一ではない。そこにそれぞれの主体性が関わってくるからだ。
本書で、子安氏は、その“眼差し”を問う。まず俎上にあげられたのが柳田国男である。ボクは民俗学は、学問ではないと思っている一人である(確実にもう一人そう考えている人がいる。彼は町田市に住んでいる)が、柳田の民俗学が、「新国学」であり、「平民の生活」を調査することにより、「国民」を立ち上げようとする営みであることを指摘する。なぜか民俗学は歴史学より人気があるのだが、ボクは柳田の視線をどうのこうのという以前に、その方法のあまりに表面的であることに辟易したことがあるので、子安氏の内在的批判に賛同する。
次に内藤湖南や津田左右吉による「支那学」が検討される。子安氏は彼らの学問に入り込んでいる中国を蔑視する、いわば「帝国意識」(子安氏はこのことばはつかってはいない)をえぐり出す。
そして「国語」と「日本語」について、日本近代と日本帝国主義が生み出す齟齬を指摘し、戦時中の京都学派の「世界史的立場と日本」における議論をとりだし、その言説に竹内好を対置し、教科書検定や本多勝一の『中国の旅』などをもとに、「日本人の反省的な自己への視点」の欠如を指摘する。
子安氏の本は、知的で刺激的ではあるが、くり返しの説明が多く、饒舌である。饒舌は苦手だ。