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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

書店へ

2014-03-10 20:02:42 | 日記
 午後、浜松駅メイワンの谷島屋書店へ。『世界』と『現代思想』を買いに行った。『世界』はあったが、なぜか『現代思想』は売り切れ。増刊の「ネルソン/マンデラ」特集号はあったが、今月号の「儒教」を特集した今月号はない。これはとても珍しいことだ。いつも『世界』や『現代思想』は売れ残っているのに・・

 そのほか『古事記とはなにか』(講談社学術文庫、神野志隆光)、『人間の尊厳』(林典子、岩波新書)を購入。

 帰宅して『世界』を読みはじめる。最初に「読者談話室」を読む。日本農業についての投稿を読む。しばらく前の雪で、農家は多大な被害を受けた。東京周辺では野菜の価格がたかくなっているようだ。

 そこに「安心・安全な野菜は大量生産できない」とあった。

 今日は小雪がちらつくほど寒いので畑には行かなかった。今はじゃがいもの植え付け時でもあり、また収穫の時期でもある。ブロッコリー、かき菜、ほうれん草、小松菜、ダイコン。ダイコンはもう収穫し終わった。いずれにしても、野菜は一斉に収穫しなければならないので、すべてを自家消費するのはむりだ。近所にあげたり、あちこちに送る。その場合、土は洗い流さなければならないし、送る場合は箱に詰め、ヤマト運輸まで持って行かなければならない。なかなかの手間である。

 だが安全・安心の野菜は、近所でも、遠くでも喜ばれる。近所からは、野菜の代わりにいろいろなものをいただく。

 さて、農業だけでは食べていけないので、若い人はどこかに働きに行く。したがって畑には高齢者しかこない。しかしその畑も、年齢を重ねるとできなくなるため、荒れているところもある。

 欧米では、農業に様々な補助をしているそうだ。日本ではそれがない。農業予算はあっても、農業土木関係、つまり農家にではなく、土建業にカネが行くシステムになっている。農家は「はだか」のまま、この貿易自由化という荒波にさらされている。

 安全・安心の農産物は、日本ではいらないようだ。
 

なぜ?石巻市大川小学校のこと

2014-03-10 17:56:53 | 日記
 昨年3月末、石巻市を訪れた。レンタカーを借りて、大川小学校を訪問した。ボクら以外にも次々と人々が訪れていたが、そこでは沈黙が支配していた。

 校舎は津波に襲われたままで、そこだけ時間が止まっているようだった。

 校舎のすぐ北側には山があった。なぜそこに逃げなかったのか、誰しも疑問に思うところだ。そこに逃げれば、必ず助かったはずだ。犠牲になった子どもたちの親たちも、だからこそ、なぜという問いを持ち続ける。

 地震があってから40分くらいだったか、子どもたちと教師が校庭に止まり続けた。なぜ、登らなかったのか。

 この日、校長は不在であった。

 避難についてなかなか結論がでなかった原因の一つは、この校長の不在であったのではないかと思う。現在の学校現場は、上意下達の場となっている。そういう場では、トップ以外なかなか決定ができない。「オレが責任を取る、山に登ろう」という声が、教頭辺りからでていたら、皆助かったかも知れない。

 現在の学校では、個々の教員は、管理・指示される対象であって、自主的な行動や教育は許されなくなっている。特に義務教育学校ではそうなっている。

 大阪や東京などでは、入学式・卒業式に教員が「君が代」を歌っているかどうかチェックされるような状態だ。このように、いわゆる「管理教育」は、全国各地で確立しつつあるのだ。

 そういう状態に置かれている教員たちは、自らこうしたい、こうする、という決定をくだせない。とくに自分が直接関わっている子どもたちだけではなく、学校全体に関わることについては、「上」からの指示によりはじめて動くことができるのだ。

 「どうしましょう」、「山に逃げましょうか」、「子どもがケガをするかも知れない」、「どうしましょうか」・・・・・・という会話が延々と続けられたのではないか。

 現在の学校で、こうした場合の決定権を持っているのは校長だ。まずい決定を下した後に責任を追及されたくないから、決定しない。決定しないまま、だらだらと時間をつぶしていたのだ。

 こうした学校の構造は、戦後民主教育を破壊してきた文部科学省がじっくりと築き上げてきたものだ。

 もちろん、そういう構造が出来ていたからといって、すべての学校が大川小学校のような悲劇に見舞われたわけではない。そこには大川小学校の独自の問題があったのかもしれない。

 「なぜ?」・・最終的な結論は得られないかもしれないが、それにできるだけ近づくべきだ。それは子どもを失った人々に対するせめてもの誠意であるはずだ。

 

【本】ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきヒトラー』下巻(河出書房新社)

2014-03-10 10:41:27 | 読書
 今日は寒い日だ。ボクの足下には、寒気が渦巻いているようだ。今年の冬は、春の声が聞かれるようになっても、寒気は何度もやってくる。

 しかし世界史に於けるヒトラーは一度だけでたくさんだ。ヒトラーは、その狂気によって、ドイツ国民の支持を取り付け、それを背景に己の死の野望に向かってまっしぐらに進み、その過程で多くの人を死に至らしめた。狂気は、一度だけでたくさんだ。

 さて本書は、ドイツでかなり売れたという。どういうふうにドイツ国民は読んだのだろうか。

 現在のドイツに、1945年に死んだヒトラーが忽然と登場した。ヒトラーは、昔のままだ。何ら変わっていない。何ら変わっていないヒトラーが、テレビに出演し、各所に出没し、そして市井の人々からサインをせがまれるようになる。

 いったいこの小説は何をいわんとしているのか。

 ※そういう問いをたてることが出来るような小説、あるいは戯曲を、本当はボクは好きなのだ。読み終わって読んだ人が軒並み同じような感想をもつようなフィクションは面白くはない。

 ひとつ。21世紀の現在にヒトラーが現れても、その存在が異次元の存在ではなく、現在にも生きていくことが出来るのだということを示したかった。

 もうひとつ。ヒトラーの目を借りて、現在のドイツ社会を風刺したかった。

 そしてもう一つ。現在のドイツ人が、ヒトラーを受け入れることができるかをチェックしようとした。

 少なくとも、この小説はヒトラー批判ではない。批判的な箇所はおそらく二つ。ひとつは全編でヒトラーが独善的な性格であったことを示していること、もうひとつは彼の秘書になった女性の祖母のナチ体験が赤裸々に語られ、ヒトラーにその事実が突きつけられ、彼を困惑させたこと。

 それ以外にヒトラー批判はない。否定すべき存在としてのヒトラーは描かれていないのだ。
 
 滑稽なこととしては、このヒトラー氏、ネオナチに襲撃されたことだ。

 いずれにしても、著者が何故にこうした小説を著したのかはよくわからない、ということだ。

 なお、訳は素晴らしい。ヒトラー氏の発言、心の内の動きを表す文は、まったくそれらしいのだ。

 さっと読める。時に笑いながら・・・しかしその笑いは、ひょっとしたらそうすべきではないということなのかもしれない。