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一句鑑賞

俳句ブログも長くなりました。この歳なりの記事が書ければと思ってますが、やや怪しげな時もあります。よろしくお読み下さい。

光の道 海の道 いろいろですね(^_^;)

2023-12-08 00:48:33 | 古代のロマンへ

大きなクスノキが二股にそびえています。

それに夕日がちょうど入り込む季節なんですが・・・いつまでかは知りませんけど。

光の道というCMがあって、福岡の福津市、宮地嶽神社へ上る参道の階段から眺めると一本の道が、宮司(みやじ?)の浜へ一直線の道があり、海に沈む夕日がその道と重なったときに・・・光の道のように参道へと光が駆けのぼるように見えるのだそうです・・・まだ見ていません(^_^;)

それと同じように、神社というのは西方を見ている位置関係が多いのかな?

私どもの近くの宇美八幡宮でも西方を見れば、写真のような景色は見れますね。さしずめV字の間に夕日が入っているので・・・ヴィクトリー ロードともいうのでしょうか(笑)

でも騒いではいけませんね、自然の営み?現象ですから。

宮地嶽神社からの浜は、遠浅の海水浴場として有名です・・・子供のころは何度も行きましたね・・・津屋崎という地名もあり、海運の要所でもあります。

ここから北東へ十数キロで宗像大社、世界遺産とかになりました。宗像大社は北方向の玄海灘へ向いて参道が伸びています・・・神湊(こうのみなと)から先は海で、大島、沖の島へと海の道があるのですね・・・もちろん舟ですけど。

といったことが浮かんだので書いておきます。寝ます・・・goo


若竹

2023-05-16 00:21:54 | 古代のロマンへ

6年前の画像ですが・・・最近は手抜きで新しい画像がありません_(._.)_

若竹、今年竹ですね。歳時記の解説は・・・

皮を脱いだ筍はたちまち生長して親竹をしのぐほどになる。幹も葉もすがすがしい緑で、一目で若竹とわかる。・・・とあります。

例句に

若竹や鞭のごとくに五六本   川端茅舎

竹林の中に数本の若竹を見たのですね。

昨今はこのような句をあまり見ませんね。生活様式が変わり家の周囲にあった竹林などはとっくに住宅地になってますし。

画像の竹林は・・・朝倉市と筑紫野市との間にある筑前町の大己貴神社(おおなむち)の境内奥の方です。大国主命を祀ってありまして、大黒様祭りが2月の建国祭のころに行われているようです。

またこの神社は、神功皇后の朝鮮への出兵の際に兵が集まらずに此処に社を建てたところ、たちまちに兵が集まったと言われています。そういったところから最古の神社とも云われているようです。

年に数回、秋月への道中にありますのでお参りさせていただいてます。

 


2021-04-08 22:25:12 | 古代のロマンへ

芥屋という地名についてちょっと調べました。

どうも製鉄に起源があるようです。

えっと昔の砂鉄から鋼(はがね)を取り出すと、地鋼に「けら」という不純物が付いています。それをこさぎ落すのを、けらを落とす・・・こけら落としとなるわけで・・・云々。

芥(あくた)をこさぎ落した、小屋?という意味かもしれないと・・・云々。

それから私は考えました、古代のことを・・・

要は鉄を支配したものが権力者になるわけです。

芥屋で製鉄が行われたということは知りませんが、おそらくここの砂浜は砂鉄が多いとなれば、どこでも構わず製鉄をおこなっていたと思うのです。

芥屋の場合は、すぐ後ろが山で燃料の木々は多いです。

それと同志社の森先生だったと思いますが、TVでの邪馬台国のテーマだったが、もうかなり前の話しです。砂鉄と木材を求めながら、卑弥呼さんご一行は東進したのではないかという見解でした。そうだろうなと当時は頷いておりました(-_-;)

各地に芥の文字が使われたり、こけらに関する地名が残っているかもしれませんね。

素人のたんなる想像ですから、そんなこともあるかな?くらいに詠み捨てて下さい。

子どもの頃に磁石にくっ付く砂鉄に驚いたことも思い出しました。

といったところで

 

 

 

 


マスクの目元は、どなたかな?

2020-10-04 22:25:29 | 古代のロマンへ

お店に来られたお客様・・・お元気に頑張ってますねと声をかけられた。

ん!?誰かな?って感じで見ますと・・・

こーたけです・・・神武ですと言われて、あぁ・・・どうもと答えるが、どこのこーたけさんか不明・・・元気でいてくださいねと言われてお帰りになられた(-_-;)

マスクの目元だけでは分からなかった・・・ごめんなさい_(._.)_

町内では歴史ある苗字です。神武(こうたけ)さんは町内に2,30軒かな?古くからのお家ですね。

しかし初めてこの姓を知った方は、読みが分からないでしょうね。

もう20年ほど前かな、やはりお店に来られた方が名刺を出されました。

東京の有名な国立大学の教授の肩書でして、姓が神武なんですが、読み仮名が印刷されていまして、かんたけさんだった?と思い出しました。東京じゃこうたけと読んでくれないと仰ってました。「じんむ」さんでは畏れ多いですからね。

しかしこの姓は私の町にあるのです。

それともう一つの苗字が、やはり古代の人物を想起させます・・・武内、たけうち、です。

武内宿禰という豪族と言いますか、3世紀初めのころの、仲哀天皇神功皇后の時代人です。

その武内さんがやはり何軒か居られます。

やはり何らかのご縁があるのでしょうか、応神天皇(3世紀初め)の生誕地としての町ですから、いろいろと1800年ほど前からのなにかがあるのでしょうね。

私?平凡な小林です(^_^;)

しかしマスクの目元だけでは、相手が分からないことが多いですね。

件のご婦人の正体は、何方の奥さんだろうか?あの人かな?

とここまで考えたところで、晩ご飯のカレーライスが完成しました。

 

夕食後に外に出ますと音もなく雨が降ってました。乾いた土や木の葉が音を吸い取ってくれているのでしょう。

 

お昼通りを歩いていますと、長沢さんから「むかご」食べます?と声掛かられて要るならどうぞ?・・・昨年、零余子ご飯を炊いて、息子らにあまり喜ばれなかったので・・・(-_-;)

私は食べませんのでとお断りした(^_^;)

長沢?長い沢沿いに住んでおられたのか?ご先祖は・・・などと考えると眠れなくなるのでこの辺で・・・しかし苗字・姓はいろんなことを考えさせられますね。

元気でいてくださいねは嬉しかった。零余子のご婦人の笑顔も。

おやすみなさい

 


台風は過ぎ

2019-08-06 23:50:03 | 古代のロマンへ

台風でした。ほぼ予想進路でした。

未明に宮崎から熊本、有明海を北上して佐賀県唐津市から対馬海峡方面へ抜けて行きました。

私の所は未明からでしょうね雨が降り始め、午前中はしっかり振りました。

風は思ったほど強くありませんでした、たぶん風速20mぐらいのが何度か吹きました。

夕食を作って外に出てみると雲の切れ間に青い空が見えます・・・通り過ぎたな。

ということで夜のウォーキングも涼しくて快適でした。汗もあまり出なかった・・・


 

仏壇周りを引き出しなど片付けていますとそれは古いものが出てまいります(-_-;)

祖父がシベリア出兵に戦役についていた時の感謝状?が入っていた黒塗りの漆に金の字で、大正三年から六年の戦役と書いてありまして、表題はちょっと読めないのです字体が独特のものです。勲という字ともう一字が読めなくて・・・難しい字体です。いつか調べてみよう・・・

箱の中身は空なんです、100年とすこし前のことです。

それから通称江戸版画と呼ばれるものが幾枚か出てきております。これを新たに収納する紙封筒のクッション性のあるものを探して購入しました。封筒に入れ弟に渡そうと思ってます。その中の2枚が・・・明治の初めごろの版画なんですね・・・新東京名所図と書いてあり浅草とどこかの景色です。

明治はその後に、活版印刷となりますが日本ではまだ技術がありませんでしたね。

で明治政府がのお札を発行するときにイタリアの技術者だったそうです。百円札ですが、大金ですよね。肖像は神功皇后ですが、イタリア人画工が書いたのでヨーロッパ的お顔になっています。しかし神功皇后のモデルとなる写真などはありませんね。

その像が近所の八幡宮にあります。室町中頃の作です。何故?此処にあるのかは、私の想像ですが・・・長くなりそうですが書きます(笑)

足利尊氏が九州に逃れてきておりましたが、その後兵を起こします。それからのことは皆さん歴史がお詳しいでしょうから書きません。

問題は太宰府で挙兵したと言われておりますが、戦勝祈願は宇美八幡宮で行ったのではないかと信じております(-_-;)

と言いますのが大宰府は菅原道真公ですが、宇美八幡宮は神功皇后が応神天皇をお産みになった所です。3世紀初めですが・・・それから西暦580年に宇美八幡宮が大和朝廷により創建されております。勝手に作るわけにはいかないので、たぶんその時の権力者です。

ご存知のように応神天皇は八幡神といわれ、武将が戦場で自らを鼓舞する南無八幡大菩薩の八幡です。ですから足利尊氏も応神天皇生誕の地で戦勝祈願を行った・・・(-_-;)

で見事に足利幕府となるのですね、その後に仕置きなどとなったときに戦勝祈願をおこなったかの神社へ神功皇后像を寄進したのではないかと・・・同時に神社のリニューアルといいますか、ほぼ全面的にやり替えが行われております。とても瀟洒な朱塗りの神社だったですが戦国の世に消失しております・・・絵図は残っています。立花宗茂さんなどが跋扈ていたころですね。

百円札の話しですけど・・・肖像画のモデルになったそのお顔は25年に一度の御開帳でしか見れませんが、わが家には写真が(どおにでもあるか)あります。またその紙幣のモデルになったいきさつを記事にした新聞の切り抜きも出てきました。

なんかこのまま資料館にでもしようか(笑)って感じです。

焼失した神社を再興したのは黒田公です。とくに三代目はご尽力だったと聞きましたが・・・!!?

数年前に柳川藩家老のご子孫さまが、わが店にふらりと来られて・・・柳川から来たのです、十時(ととき)です・・と言われて!!驚きました。私、柳川を歩いて十時邸が残されて公開されているのを知っておりましたから、柳川の十時様!と思わず言いましたよ(笑)

そして吾が祖先が建立したのですと一言仰ったのにはびっくり。後でいろいろと考えたのですが、黒田は大藩です、建立を柳川藩に行わせたのかもれないと思っております。黒田は秋月藩に長崎出島の奉行をさせておりますから。

いろんな知識がこの頃になって繋がりなど分かってきました。古文書をひも解くわけではありませんが、自分なりに歴史に思いを馳せるのもいいものです。

長くなりました・・・

どうも、キーを打ってもその通りに文字にならない?おかしな現象があります。