春江美術館・画廊春 (彫刻家 奥村信之・描く詩人 水村喜一郎作品常設) 

春江美術館・画廊「春」作品展示の様子を 画廊犬コテツと共にお伝えします。

第2回企画展 展示作品の紹介

2014年07月03日 | 画廊春展示

今日は難波田龍起(なんばた たつおき)さんの作品を紹介します。 

 

「集合体」

 エッチングによる銅版画です。抽象作品ですが眺めていると人のくらし、営みを

心象的に表現しているのではないかと感じてきます。

美術界では日本の抽象絵画のパイオニア、大家などと評論されていますが 実はいつも人間を

深く見つめてきた画家の一人だと私は思っています。

もう2点所蔵していますが 今回はスペースの関係でこの作品を展示します。

 

『ウィキペディア(Wikipedia)』より

難波田 」龍起1905年8月13日 - 1997年11月8日

北海道旭川市生まれ。

1923年早稲田第一高等学院に入学、高村光太郎に出会って美術に関心を抱く。

早稲田大学政経学部中退。川島理一郎に師事し、1929年国画会に初入選。

1935年フォルム展、1936年アヴァンギャルド芸術家クラブ結成に参加する。1937年には自由美術家協会の創設に参加し、1938年に同協会会員となる。

戦後は、戦後抽象画家として活動、現代日本美術展日本国際美術展などでも活躍した。1959年に自由美術家協会を退会し、以後は個展を中心に活動した。

1971年紺綬褒章受章(以後5回受章)。1987年東京国立近代美術館で『今日の作家 難波田龍起展』を開き毎日芸術賞を受賞。1996年文化功労者として表彰された。

 

ところで 愛犬ハチゴローが失踪してそろそろ1年になります。

ひょっこり帰ってくるような気持ちになります。

どこでどんな暮らしをしているのでしょう。

元気に暮らしていることを願っているよ。

コテツ君も遊び相手が欲しいと言ってるから 帰ってこい。

 

1901905年(明治38年)8月13日に北海道旭川で生まれた難波田龍起(なんばた たつおき)は、高村光太郎との邂逅から美術に関心を抱き、昭和初年に本格的に画家を志すにいたりました。第二次世界大戦後は一貫して抽象絵画の探求に転じ、純粋に線と色彩が喚起させるイメージの構築を追求してゆきます。
1997年(平成8年)に92歳で亡くなるまでの長い生涯の間には、さまざまな出来事がありました。とくに70歳前後に、最愛の息子で同じく画家としての道を歩み出していた次男・史男(ふみお・享年32)と長男・紀夫(のりお・享年35)に相次いで先立たれるという不幸に見舞われますが、その苦悩を乗り越えた後に、魂の結晶とでも呼ぶべき、深い精神性をたたえた清澄、清明な心象風景という独自の画境に到達したのでした。
「描けなくなるまで描こう」という旺盛な制作意欲は、88歳のときに描いた畢生の大作《生の記録》に結実し、また、死を間近に控えた入院中も最後までペンを握り、一連の《病床日誌》を残しました。
5年(明治38年)8月13日に北海道旭川で生まれた難波田龍起(なんばた たつおき)は、高村光太郎との邂逅から美術に関心を抱き、昭和初年に本格的に画家を志すにいたりました。第二次世界大戦後は一貫して抽象絵画の探求に転じ、純粋に線と色彩が喚起させるイメージの構築を追求してゆきます。
1997年(平成8年)に92歳で亡くなるまでの長い生涯の間には、さまざまな出来事がありました。とくに70歳前後に、最愛の息子で同じく画家としての道を歩み出していた次男・史男(ふみお・享年32)と長男・紀夫(のりお・享年35)に相次いで先立たれるという不幸に見舞われますが、その苦悩を乗り越えた後に、魂の結晶とでも呼ぶべき、深い精神性をたたえた清澄、清明な心象風景という独自の画境に到達したのでした。
「描けなくなるまで描こう」という旺盛な制作意欲は、88歳のときに描いた畢生の大作《生の記録》に結実し、また、死を間近に控えた入院中も最後までペンを握り、一連の《病床日誌》を残しました。
1905年(明治38年)8月13日に北海道旭川で生まれた難波田龍起(なんばた たつおき)は、高村光太郎との邂逅から美術に関心を抱き、昭和初年に本格的に画家を志すにいたりました。第二次世界大戦後は一貫して抽象絵画の探求に転じ、純粋に線と色彩が喚起させるイメージの構築を追求してゆきます。
1997年(平成8年)に92歳で亡くなるまでの長い生涯の間には、さまざまな出来事がありました。とくに70歳前後に、最愛の息子で同じく画家としての道を歩み出していた次男・史男(ふみお・享年32)と長男・紀夫(のりお・享年35)に相次いで先立たれるという不幸に見舞われますが、その苦悩を乗り越えた後に、魂の結晶とでも呼ぶべき、深い精神性をたたえた清澄、清明な心象風景という独自の画境に到達したのでした。
「描けなくなるまで描こう」という旺盛な制作意欲は、88歳のときに描いた畢生の大作《生の記録》に結実し、また、死を間近に控えた入院中も最後までペンを握り、一連の《病床日誌》を残しました。

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