戦争にルールはない
無差別に人を殺害する
ウクライナの皆さんの苦しみ、怒り、悲しみに胸が張り裂ける思いです。
私の父は20年程前に他界しましたが
若いころの体験を話してくれたことがあります。
中学校を卒業すると国鉄学校に通いながら
東京で働いたと話していました。
当時は太平洋戦争中で、恐ろしい東京大空襲を体験したそうです。
以下、父の話
その日は忘れもしない。昭和20年(1945年)3月10日のことです。
いつもの夜とは違っていました。
真黒な空から焼夷弾が雨のように落ちてきました。
私は当時は貴重品で手に入らなかったタバコをポケットに入るだけ詰め込み
夢中で走りだしました。タバコは東京でお世話になっているおじさんのために
ヤミで買っておいたものです。後から考えるとこのタバコが命を救ってくれたのです。
わけも分からず近くの防空壕に走りました。でもそこはものすごい人でいっぱいで
入れませんでした。熱い火と真黒な煙が迫ってきます。
とっさに地下鉄の駅に逃げ込みました。ものすごい数の人でした。
その中は地獄でした。熱風と煙で息もできないくらいでした。
『このままでは死ぬ』と感じて夢中ではい出し、火の中を走り回っているうちに
隅田川の橋を渡り小さな公園にたどり着いたのです。
そこにはやっぱり防空壕があったのですが、いっぱいの人で
とても私は入れてもらえません。
『もうこれでおしまいだ』と思ったとき
ポケットのタバコに気が付いたのです。
「タバコをあげるから入れてください」とみんなに配り、
どうにか入れてもらえました。
夜が明けて外に出てみると周りは焼け死んだ人のやまでした。
隅田川には三日間、おぼれ死んだ人が流れ着きました。
この空襲で30万人の人が死にました。
私は本当に運がよかったのです。
これだけひどい空襲をされても、
私には日本が負けるとは思われなかったのは
今から考えると恐ろしいことです。
私が今生きていられるのは運が良かっただけなのです。
父は終戦後 焼け跡の東京で必死に働きながら若いころを過ごしたそうです。
何年か経つと東京には少しずつ 絵の文化が戻ってきたそうです。
もともと絵が好きだった父は、生活費を切り詰めながら
若い絵描きさんたちの絵を眺めたり、少しずつ求めるのが楽しみだったそうです。
当時収集した絵はもう残ってはいませんが
母と所帯を持ってから買い求めた絵は何点か残っています。
難波田龍起 形象赤
村井正誠 二人