おはようございます。
昨日は今から400年前、慶長少年使節の一員、支倉常長がローマ法王に謁見し、その肖像画がを描ボルネーゼ美術館に所蔵されていることを書きました。
肖像画をかかせたのはシオペーネ・ボルネーゼ枢機卿でした。
ボルゲーゼ家は、法王も出したローマで一番の貴族です。今は政府に買い取られて、ボルゲーゼ美術館とボルゲーゼ公園になりましたが、かつてのファミリーは、ここのヴィラに住んでいました、敷地の広さが80ヘクタール(24万坪) ローマ市内の地図を見ると、中心の大部分を占めています。
その直系が、アルテーナ(ローマから30㎞)のボルゲーゼ宮殿に住んでいらした、現代のパウロ・ボルゲーゼ公爵です。
その像を奥村が作りました。
話は400年前、に戻ります。
シピオ―ネ・ボルゲーゼの叔父さんが、1610年代法王になったパウロ・ボルゲーゼ・5世です。つまり現代のボルネーゼ家はローマ法王の子孫というこになります。
パウロ5世は、いち早く、ベルニーニの才能を見出し、ローマに呼び寄せ、彼に英才教育をさせました。シピオ―ネは、ベルニーニに、いろいろな彫刻の仕事を注文し、その中でベルニーニは腕を磨いていきまし
(奥村氏の作ったヨハネパウロ2世像が バチカン宮殿にベルニーニの作ったローマ法王像と対峙して永久展示されたことにも不思議な縁を感じるのです。)
シピオーネ・ボルネーゼはまた、支倉常長が、ローマに来た時には、おじさん(ローマ法王・パウロ・ボルゲーゼ5世)に言って、支倉と会うように勧めたりしました。
またシピオ―ネは美術収集家としても、有名で、今、ボルゲーゼ美術館にある作品群は、彼の貢献度が大きいです。
ローマのボルゲーゼ宮殿は、ローマにある大宮殿の一つです。宮殿内は、コロンブスが持ちかえったと言われる金を贅沢に使って、天井に装飾をほどこしてあります。有名な支倉常長の等身大肖像画があります。
パウロ・ボルゲーゼ公爵の跡を継いだ現当主の像(カヴァツァ氏)も、奥村が作りました。
今は、1階をスペイン大使館、2回をメルリ・リンチなどに貸しています。アルテーナの宮殿も、ローマの宮殿も私邸で、一般の人は入れません。
18世紀後半から19世紀初めは、カミッロ・ボルゲーゼが有名で、ナポレオンの妹パオリ―ナの旦那です。ナポレオンは、このボルゲーゼの美術品がのどから手が出るぐらいほしがっていたそうです。
このように、ナポレオンとも親族関係にあります。
ボルゲーゼ、ベルニーニ、法王、バチカン、奥村、支倉
全てが目に見えない糸でつながっているような気がします。
支倉が日本に戻ったのが、1620年、今度の東京オリンピックの400年前です。
支倉が帰国した当時の日本はキリスト教が禁教となり、支倉常長は不遇の生活を余儀なくされました。
それから400年が過ぎた現代、奥村信之はパウロ・ボルゲーゼ公爵像を制作します。
奥村氏は1988年パウロ・ボルゲーゼ公爵の肖像を制作し、アルテーナのボルゲーゼ宮殿に設置されましたが、バチカンサイドは、奥村がボルゲーゼ公爵の像を作ったことは知りませんでした。見えない糸に引き寄せられていたのではないかとも思えてきます。
さらに2003年、奥村信之はローマ法王ヨハネパウロ2世像をつくりました。
支倉常長の魂が、400年という長い年月を経て、奥村信之という稀有の彫刻家の手を借り、慶長使節がローマを訪問したときのご恩をやっと果たしたのではないかとさえ思えてきます。
ボルゲーゼ、ベルニーニ、法王、バチカン、奥村、支倉、全てが目に見えない糸でつながっているとしか思えません。
今年は、慶長渡欧使節団の支倉が、ローマ法王パウロ5世に謁見してから、ちょうど400年目にあたります。
その歴史上の節目に、日本人彫刻家、奥村信之がイタリアで活躍しているという事実に深い思いを抱かされるのです。
(完)
奥村信之氏の彫刻は 現在当画廊にて13点ほど展示しています。皆様足をお運びください。
氏の最高傑作、大日如来像は現在鋳造中ですが11月末には展示できると思います。
大垣市藤江町4-14 画廊春 代表 田渡達久
画廊は大垣市ドラッグユタカ旭町店の裏(北側)にありますので そこを目印に来て頂けるとよくわかります。
お待ちしております。 Tel 0584-78-0043
Email dentotakkyu@yahoo.co.jp