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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

雪の海野宿

2008年01月31日 | 雑記

 

 

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旧軽井沢 六本辻

2008年01月30日 | 雑記

軽井沢駅方面より六本辻をへて雲場池に至る道です。遠く見える歩行者の先が六本辻です。ここ数年軽井沢は空前の別荘建築ブームでしたが、近頃は駅前にマンションが何棟も建設中となっています。建築規制があるので、近隣商業地域では3階まで、それ以外は2階までとなっており、それなりに整然とした光景が維持されています。かつての軽井沢は避暑地として夏のみの別荘地でしたが、新幹線開通後は東京への通勤可能距離となりましたので、定住される方も増えているようです。そしてなによりも変わったのは、昔はお金持ちの広大な敷地と大きな邸宅が広がる別荘地であったのですが、今はターゲットを東京のサラリーマンの課長クラスにしているようで、それなりの規模の分譲単位となっています。元々軽井沢は中山道の3つの宿場として発展した場所で、その子孫の方々も多く暮らしています。地元の方の住まいは概して、地元の棟梁による木造瓦葺きのがっしりとした作りの家々なのですが、かつての別荘として建てられた住まいの多くは、外観の痛みもはげしく、代が変わり管理する人もなくなったせいか廃屋同然になっている家もあります。これは別荘という借り住まいであることもあるのでしょうが、工法が違い、いわゆる安普請で見た目だけはいいという考えのもと設計されているからです。また涼しい夏を標準として作られていますので、どうしても厳冬に長年晒されると、自然と痛みも激しくなってきています。軽井沢は明治時代に浅間山の噴火による被害が甚大でしたが、それでもそこに住む人、通う方が沢山いらっしゃいます。今でも浅間山は活火山として活動していますので、これから定住をお考えな方は決して永遠に安全な土地ではないことも考慮に入れた方がいいかと思います。

 

 

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旧軽井沢  雲場池

2008年01月30日 | 雑記

雲場池(くもばいけ)

近く(鹿島の森敷地内)の湧水が入る小川をせき止めた池ですので、めったに凍らないそうです。

 

 

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最低気温

2008年01月29日 | 雑記
昨日は今年一番の寒さで、朝の気温は-11℃でした。近くの菅平高原は-18℃だったそうです。雪の多い日本海沿岸の山間部に比べ、内陸の方が気温は低く、非公式の記録ですが、秋山郷からかつて秋田マタギが山越えして草津に入るルートの途中にある、野反湖から下った、群馬県の六合村では、かつて-40℃近くまで下がったことがあるそうです。氷河期の日本列島の平均気温は-7℃なので、氷河期は毎日がこのような寒さだったのかと思います。確かに長野県は寒いイメージがあるのですが、県内でも特に寒いのは、菅平高原と野辺山高原で、続いて軽井沢や開田高原(木曽)、そして人口が多い地方では、諏訪湖を擁する諏訪市・茅野市などが低温地域です。この諏訪・茅野地域では、寒さを利用した、寒天作りが盛んですが、数年前の寒天ブームの折には産地であっても在庫があっというまに無くなりました。県内のスキー場では、野沢温泉、志賀高原(ここも寒い)や白馬が有名ですが、以前、白馬のスキー場の関係者が菅平高原スキー場に来た折、寒い寒いと言っていたのが印象に残っています。その方は住まいは小谷村だとのことですが、こんなに寒くはないと言っていました。さて毎日寒い日が続いていますが、この冬自宅からコートを着て外出したのは2日だけです。たまに見るテレビで東京の方が厚手のコートを着こんで、完全防寒で街を歩く様子が映し出されますが大変大げさに見えてしまいます。県内はどこも完全な車社会で、徒歩での移動というものがほとんどありません。ですからコートは以外と必要ありません。以前、赤道近くの東南アジアに行ったおり、ちょうどクリスマスシーズンで、気温30℃の中、高級デパートのショーウィンドーには、ダウンジャケットが並べられているのを見て驚いたことがありますが、案内の人に聞くと、雰囲気だけでも冬を味わいたいと結構売れているものだそうです。日本一冬暖かい東京もそんな傾向があるのかとも思いました。
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ユングについて Ⅲ

2008年01月28日 | 雑記
 「無意識の心理」は具体的事例紹介が少ないこともあり理解がしずらい面もあるのですが、それでも主要なユング理論の流れが分かる構成となっています。そして特に、本書の中で、主論的に論考している無意識の説明には説得力があり、また驚くべき指摘もあるのですが、その中で最たるものを紹介すると、たとえば、人が転ぶ、交通事故に遭遇しケガをする、火災に合う、病気を患うなどの一見不可抗力と思える現実の個人的諸アクシデントについては、すべて事前に無意識の中での準備がなされていること。さらにそこには、その障害にあうことを自ら望んでいる自分がいるという指摘です。これはユングが精神分析を行ったところすべての被験者にその所見がみられたという事実からきている見解なのですが、これにより表面意識とその下にある個人的無意識、更にその下の集合的無意識の危険な関係が見えてきます。人は意識の支配するところの自らの意志により行動するばかりでなく、生を受けてから現在までの諸体験に基づくが、今はすっかり忘れている個人的無意識のみならず、それ以前の自分とは全く直接関係のない所謂人類の記憶により行動が司られているということです。人類の記憶とは人類の歴史と解しても良く、有史以前の未開の頃より行われてきた行動のみならず、そこに生きた人々の強い感情をも含有します。そこには悪しき思想による残虐な行為や、きれいごとでない人類の抑圧の歴史、悲惨な出来事の記憶も想念とし残されています。一方、この世のあらゆる現象が相対的であるがゆえに希求する絶対的なる存在への渇望。ユングによるとこういったものが、魔人や神々を作り出しています。前近代の一部とルネッサンス以前まではこうした客観的に説明の出来ない存在は主観的存在として表層意識の内にありましたが、産業革命以来自然科学の急速な進歩と思想の変動、特にマルクス主義の出現以降、人々は信仰を捨て、この世のすべての現象は論理的な数式をもって科学的に説明できるという幻影に獲り憑かれています。この表層意識に獲り憑いた幻影がかつての魔人を駆逐し、絶対的な神の存在を願う心を一掃してしまいました。しかるにユングの説によれば、そうした過去の魔人や神を信ずる心は集合的無意識の内に押し込められてしまっています。しかしこの原像は常に表に出る機会をうかがっています。そしてあるとき心の内部のエネルギーのバランス崩れると、エナンディオドロミーが出現し、表面の意識に背反して行きます。こうして、現代人の精神疾患は過去最大になっています。精神病の症例に退行化現象がありますが、これは徐々に若い年齢に精神の退行が進み、ついには幼児期まで遡るのですが、ここまでが個人的無意識の範疇となります。そしてその先の自分の誕生以前まで遡ってしまうケースが見られますがこれが集合的無意識の世界です。
 さて上記までこのユングの無意識理論について「無意識の心理」を読みながら考えることも含め述べてまいりましたが、集合的無意識という概念についてはユングの説以外にも他の可能性があるのではないかというのが自分なりの印象です。ただそれが何なのかということはまだ漠然としていますし、まだそれをうまく言い表せませんので、もう少し違うユングの本を読んでみようと思います。
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ユングについて Ⅱ

2008年01月27日 | 雑記
 集合的無意識については、ユングの見解についてまだまだ理解不足がありますので、結論じみたことは言えないのですが、その他本書「無意識の心理」において、特に印象に残った記載がいくつかあります。一つは、エネルギー保存の法則を19世紀最大の発見であると述べたくだりで、補償作用についての論考を見ても、ユングにとってこの物理的法則が心的エネルギーにおいても適用されるというインスピレーションが最初からあったことは間違いのないことだと思います。本書において、ユングはこのエネルギー保存の法則を発見した、マイヤーの心理分析を行い発見に至るまでの過程を集合的無意識に関連付け論じています。マイヤーは物理学者ではなく、医師であったのですが本来は、このような法則は物理学者などにより創出されるべきものであったにも関わらずマイヤーが見出したのには理由があり、彼は発見したのではなく、思い出したのだそうです。思い出すというのは比喩なのですが、これは彼が直覚をもって原像(集合的無意識)から引き出した結果ということで、その源泉は古くから伝わる霊魂不滅や仏教における輪廻の思想にあります。
 さて人類の長い歴史の刻印たる集合的無意識ですが、この恐るべき特徴は善のみならず人々が行ってきた悪の部分も刷り込まれているという点で、集合的無意識自体独自の生命ないし魂を持っているということです。しかもこの声なき声は非常に強く、自分の意志を凌駕し、無意志状態に陥し入れさせることもあります。これが所謂分裂病の患者に見られるキツネ憑きの状態です。集合的無意識はこの点大変危険なものであると言えるのですが、それに至る理論的支柱として、古代ギリシャ哲学のヘラクレイトスの思想におけるエナンディオドロミーの法則を引用しています。エナンディオドロミーとは、一言でいうと「背反」ということですが、すべてのものは対立関係の中の調整機能の原理の中に存在し、「一切のものはいつかその反対物に転化する」という理論です。ユングは本書の中でこのエナンディオドリミーは人生の午前から午後にかわる頃から始まり、それまでの有用とされていた価値を見直しがなされるが、その過程において、それまでの(人生の)価値転換がなされ、それによる衝撃が精神上のバランスを崩すきっかけとなっているということです。視野が狭い人ほどこのような傾向に陥りやすく、人間的なものについては絶対的なものはなく、すべて相対的なものであるという強い自覚が必要であります。





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ユングについて Ⅰ

2008年01月21日 | 雑記
「無意識の心理」  C.G.ユング/著 高橋義孝/訳 人文書院

 ユングの心理学における最大の傑作は正確には自著ではないが、弟子のヤッフェが編纂した、「ユング自伝」にあります。この奇書(といっても差し支えない)はユングの体験してきた内的世界の変遷を綴っていますが、ユングにとって内的世界(心の中の世界)とは、外的世界と同等あるいはそれ以上に客観的存在であったことがわかります。
 さて胸の振り子さんの夢を見ないという話を読んで、夢を精神分析に用いたユングはどのような考えでいたのか気になり、とりあえず手近なところの本棚にあったユング「無意識の心理」を手にし、読み返してみました。ユングの著作は昔「分析心理学」はじめ数作を読み散らかしたことがあるだけなので、内容は忘れたのでいい機会でした。もちろん素人には難しいのですが、ユングの著作のおもしろい特徴は、ユング思想のどんな解説本や解説記事などよりも、実際の著作の方が遥かにわかりやすいという点にあります。これは逆説的ですが、重要なことでユングの思想がいかに裾野が広いかということの顕れがその原因になっています。「無意識の心理」という題名はユングの付けたタイトルですが、この翻訳本を最初に出版したときのタイトルは新潮社(当時)の希望で「人生の午後三時」だったそうです。最初は何のことかわからず、またこのタイトルにふさわしい内容ではなかったのですが、本の後半も終わり近くになり、ようやくその意味が判りました。太陽は昼に最大の光を降り注ぎますが、それ以降の光は弱まってきます。人生も同様で、午後三時とはちょうど中年期を指しています。精神分析において、患者の年齢あるいは、それまでの患者の経験に付き、異なる方法を用いることが必要で、主として若い精神病患者に対しては、個人的無意識を解き明かせばほとんどが快方に向いますが、ある程度年齢の行った、中年層以降はその個人的無意識の下にある集合的無意識レベルまでの解析を行わなければなりません。ユングはこの集合的無意識をインド哲学における「業」と同じようなものであると言っていますが、この業ないしカルマについては2千年以上前より仏教思想では述べられたもので、それ以前には古代インドの神々より伝えられた考え方で、何もユング学派がこういう言葉を用いそれについての解釈はどうだというようにあえて新規で難しいものに解釈せずとも、世界の思想史を辿ればこの考え方が古くから東洋において言われ続けてきているもだということが判ります。学校の先生の中に特に簡単なことをあえて難しく教えている先生もいますが、簡単なことは簡単に言わないと子供達には理解できません。

 名文というものは、一字一句読まずとも、本を数ページぱらぱら眺めるだけでわかるものですが、それは日本語の並びが整然とし、澱みなき言葉の連続性と適度な空白の余韻に由来するもので、意外かもしれませんが、ページをめくって雑然とした活字の並びの文章は内容も然りです。これは日本の小説や論文にあてはまることですが、不思議なことに翻訳文にもあてはまります。ただそれは翻訳者の力に依存する場合もあるのですが、原文が名文ですと訳文も自然と名文となる場合が多いようです。もちろんこれは自分のインスピレーションでしかないのですが良い本は読まずとも判るものです。ユングの著作の中では、前述の自伝がもっとも優れているのですが(学術的にではなく、あくまでも読み物として)その他の著作も整然と語りかけてくるものがあります。

 「無意識の心理」はユング心理学の入門書のような位置にある著作で、フロイトの精神分析手法とアードラーの精神分析手法を紹介し、それぞれの立場でひとつの症例に対する異なる分析結果を提示し、なおかつ彼らの限界を指摘します。そしてユングの発見した手法での分析を示しています。ユングによれば、フロイト並びにアードラーの分析手法では、後に個人的無意識と呼ばれる自身の体験や経験に基づく無意識に由来する精神病患者の分析には有効であるが、個人的無意識の下にある無意識層からくる精神病については適用できないとし、また症例により様々な要因がコンプレックス(複合)している場合があり一つの理論のみで、すべてを解明するのは無理があると述べています。ユングはこの個人的無意識の下にあるものを集合的無意識と呼び、その後のユング心理学の中心的主題として提起しています。この集合的無意識については、ユング心理学における極めてわかりにくい造語の一つなので、ユング研究者でないと理解は難しいと思われ、また解説も何を言っているのかそれだけを読むと判らないところがあります。ところが本書「無意識の心理」において、ユングはある大変判りやすい例を出しています。ただこれは集合的無意識とは何ぞやと述べている文章中ではなく、かなり前の部分、論文最初の方のフロイトとアードラーの分析学に言及したところに出てきていますので、注意して読まないと、飛ばしてしまいそうな一文でもあります。それは道徳についての記述で、「どんな人でもだれから教えられなくても道徳心は生まれながらにもっている」という記述です。集合的無意識とはこのようにだれもが生まれながらにもっている心の傾向性のことを指す言葉だと思います。最近ミトコンドリアDNAについての研究がなされ、遺伝子について解明が進みつつあり、人類共通の意識の遺伝においてもいずれ解明されることと思いますが、それを待つまでもなく、人々の心(意識)には普遍の魂の痕跡ともいうべき共通意識があることは自明のことであろうと思います。
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現代ミステリー事情

2008年01月17日 | 雑記
毎年年末になると、ミステリーベスト10というのが発表され書店にはベスト5位までは、並んでいます。私は、ベストセラーなど売れている本は全く読まないのですが、数年前までは、このミステリーに関してはほとんどチェックしていました。ところが近年は期待して読んでみてもつまらないものがほとんどで、一昨年買った本はベスト1の作品だけ、昨年末はベスト5上位の中で唯一おもしろそうなものを読みました。一昨年の作品はあちこちで話題に上りましたが、私は途中からトリックとストーリーが判りどうしてこれが1位なのかと疑問に思ったものです。同作家の作品は良く新人の頃読みましたが、プロットも良く、トリック、ストーリーテラーとしても十分力を持った方なので、その本のつまらなさぶりが、反って意外でした。さて昨年は1位は確か警察小説でこれはこれで、おもしろそうでしたが、なんとなく題名にひかれて、「赤朽葉家の伝説」を読んでみました。ちょうどこの作家が昨日直木賞を受賞されたのですが、男性のペンネームでしたのでしたが、少し綺麗過ぎる名前なので、女性なのだと勝手に思いながら読みましたが、読後調べると果たしてその通り女性の方なので驚きました。直木賞を受賞した作品は、この赤朽葉家の伝説ではありませんでしたが、これを読んでも作家の技量が優れていることが判る作品です。本作は日本推理作家協会賞を昨年受賞しています。さて、本作品についての率直な感想は、ストーリーとしておどろおどろしい山陰の山中の村を舞台に女三代にわたる伝奇小説に入るもので最初のページから一気に最後まで読ませる魅力ある作品になっています。作者が意識してそう書いているのか、作者の若さが気になる点が多々あることを除くと、秀逸な本に仕上がっています。ただこれがミステリーであるかというと、本格推理小説における謎の提示と明快な解決という点に関しては、最後の方は少し出てきたくらいですので、その点では期待はずれとなっています。もちろんそんなことを考えずに、通常のミステリーあるいは読み物としての魅力は十分ですので、買って読んで良かったと思えた作品には違いありません。近年の本格推理の分野のミステリー、特に日本の作品はトリックが出尽くした感があり、私が知る限りでは読者との知恵比べという本格ミステリーの楽しみは無くなってしまいました。海外においては、モース警部の最後とともに新鮮なトリックとプロットによる読者をあっと言わせる作品が少なくなってきていますが、やはり世界は広く、日本人作家による上質な本格推理が期待できない以上、まだまだ海外に目を向けるといい作品にめぐりあえることができそうです。
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ドガの踊り子

2008年01月16日 | 雑記

  パリのオルセー美術館は1848年から1914年までの印象派の作品を中心に数多くの傑作が展示されています。かつて同美術館を訪れた際、ルノワール、モネ、マネ、ゴッホの絵の持つ圧倒的な力強さや明るい色使いに隠された健全な自己主張を感じたのですが、ガラスケースの中に大切に展示してあったドガの踊り子をモチーフにした絵は他の作品に比べとても小さいながらも他の印象派の絵が自然の光を捉えているのに対し、この絵は室内の照明の中に浮かぶ踊り子の瞬間を捉えており大変印象に残りました。印象派の運動はそれまでの肖像画として人を正確に写実する絵という商品が写真の登場で廃れ、代わりに画家は自分の意図する構図を用い、キャンパスを外に出し、自然の光のもと、ラフなタッチで自己表現を図ることになります。印象派の登場の契機は写真の登場であったのですが、その内因たる自我の開放については、近世ヨーロッパの文化・芸術史と連動しています。元来対象の模倣から始まった西洋の芸術は、その長い模倣の歴史から抽象へと変遷して行きますが、これは絵画や彫刻、音楽において特に顕著です。一方わが国の芸術の特徴は西洋のそれとは全くの逆のケースとなっており、縄文土器の文様を見ると判る通り、自然現象の忠実な模倣からではなく、いきなり抽象から始まっています。その長い連綿とした抽象主義文化が最高潮に達したのは、絵画においては江戸時代の浮世絵ですが、印象派の画家達は、1867年パリ博覧会において、この日本の絵を驚嘆の面持ちで眺めることになります。そこで彼らが見たものは、写実主義とはほど遠い人の姿でした。この浮世絵の影響の下、印象派の画家達は自分の意匠による作品創りに入って行きます。原色の色使い、遠近法を無視した空間構成で画家の主張を強調して行きます。さて、ドガは印象派の画家に分類されますが、当人は写実的手法を取り入れた古典画家と認識していました。ドガの絵の特徴は、前述の室内空間の光の陰影にあります。絵の具の発展により画家が外で絵を描けるようになり、自然の光あふれる光景を鮮やかに描き出していますが、ドガは古典主義にこだわりを持ち続けた人で、室内作品を多く残しています。特にバレリーナをモチーフにした作品群はほの暗い室内で、白い意匠のバレリーナ達の姿が鮮やかに描き出されています。私は若い頃から非常にドガの絵が好きでした。絵を描くことは下手なので無理ですがカメラを向けるときは常に画家の視点を思い浮かべます。今回新体操をたまたま見ることが出来、そんな絵のような構図の写真が撮れるといいなと思いました。

 

 

 

 

 

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新体操 女子

2008年01月16日 | 雑記

 

 動きのある被写体は明るく見える室内でも、手持ちだとブレてしまいます。踊りの所作のようにキメのポーズがいつ出てくるか分からず、また大変短い時間で次の演技に入りますので、自分の機材では意外と難しかったです。

 

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雪の成人式 2

2008年01月15日 | 雑記

 

 

 振袖の上に巻くファーのショールが寒冷地仕様です。大人びた女子に対し男子はスーツ姿がほとんどで、顔を見るとまだまだ幼さが残っています。一時流行った紋付袴の男子はいなかったように思います。こちらの会場では、女子は全員振袖でした。

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成人式の風景

2008年01月14日 | 雑記
成人の日は今日ですが、大安の昨日、成人式が行われたところが多かったようです。こちらも前日に降った雪が少し残り、雪景色の中の成人式となりました。
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青森山田高校

2008年01月13日 | 雑記

男子新体操

 

長野に新体操の大会を見に行く。青森まで行ったわけではないです。日本一の男子新体操の演技も見ることができましたが、テレビで見る 以上に本物は迫力がありました。(女子は後ほど)

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秋山紀行 6

2008年01月12日 | 雑記
牧之の記録の中で、秋山郷でクマや鹿、そして岩魚などの狩猟をしながらそれを商品として卸しているマタギの話が出てきます。このマタギはなんと秋田の城下から3里ほど離れたところから出稼ぎにきている男達で、牧之はこのマタギ達に直接インタビューを行い、狩場や狩猟の様子、および生活方法を詳細に記録しています。彼らの所帯道具は、米と塩、そして僅かな鍋と、人数分のお椀があればよく、獲物は自分たちで食べる分以外は塩漬けにして売り、衣服は獲物の皮で、夜具もそれを使います。ここで驚くべきは、主たる得意先が、険しい渓谷を遡り、山越えをし、なんと草津温泉まで売り歩くそうで、岩魚などは一度に数百匹を持ち運んだそうです。生魚は貴重品で良く売れたそうです。牧之の記録は、終始、秋山郷での狩猟生活についての話で終わっていますが、私が一番関心があったのは、どうやって遥か遠い秋田からやってきたかということで、いろいろ以前に調べたことがありますが、記録によると、秋田マタギが数人でチームを組んで、クマを獲る習慣のない、山々を選び南下していったのは、牧之の時代頃からのことで、遠く関西までも遠征していったようです。ルートはいずれも山の尾根伝いを通っていました。牧之が出かけたのは秋ですが、通常は秋までは秋田の地元で農業を行い冬にクマを求めて移動していた秋田マタギですので、このマタギ達はそのまま居着いていたマタギ達のようです。
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秋山紀行 5

2008年01月11日 | 雑記
さて、雪深く、半年は外界と完全に隔絶した秋山郷ですが、もちろんお寺もないところですので、その間にお葬式がでた場合は、村の宝とされる「黒駒の太子の掛軸」を死者の上で振り、この世との縁切り引導とするところや、15歳未満の子供達を集め、子供達だけで、「なむなむ」と念仏を唱えさせるだけで済ませる地区もありました。一応、旦那寺は妻有庄や信濃の高井郡にありましたが、冬は呼ぶこともできません。村内にお寺がないので文字を読み書きする人もおらず、見よう見まねで少し字が書ける人は村人から尊敬されていたそうです。太古からの原生林が残る自然豊かなところで、自給自足を行っていた当時の人々は思いのほかみな長寿で、病人がでると重湯を与え薬にして直していました。季節の産物をその時々で食べ、外界との接触がないことからストレスもないことが長寿の秘訣です。秋山郷の人は酒は飲まず(米もなく、町で買うと大変高価、時折粟酒を作る人がいたそうですが、酒のように酔わないので仕事に差し支えることもなかった)、人と争わず、賭け事もせず、温厚篤実、藁一すじでも盗む人はいなかったそうです。
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