感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

東町の欅の車輪

2009年05月09日 | 西馬音内盆踊り
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~1

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
 夏休みも最後の週末、かねてより興味のあった秋田県羽後町で行われる、西馬音内(にしもない)盆踊りを見学に行ってきました。西馬音内盆踊りは毎年8月16日から18日までの3日間行われます。今年は17日に地元の盆踊りの片付けがあったため、最終の18日に行って来ました。秋田は今まで何度となく観光や釣りなどで行っていますので、遠いことはわかっています(笑)。ですので今回初めてJRを利用して行くことにしました。朝6:13上田駅発の新幹線あさまで出発。途中大宮で秋田新幹線こまちに乗り換え盛岡経由で、秋田県に。盛岡までは東北新幹線のルートで「はやて」と連結され最高時速260Kmの高速ですが、盛岡~秋田間は在来線を利用するため、130Km運転となります。岩手県境を越え、秋田県に入ると直ぐに見憶えのある川が目に入ってきました。ここの辺りは深い森の中を走っています。田沢湖駅を過ぎ、武家屋敷で有名な東北の小京都と呼ばれている角館(かくのだて)を通り大曲駅で新幹線を降ります。ここで奥羽線の院内行きに乗り換え40分程で目指す湯沢駅に到着しました。まだ午前11:04です。早いですね~車でしたら10時間位かかる道のりですので、半分で着いてしまいます。ところで、秋田県には上田から電車で行く場合、以前は直江津、新潟経由の羽越利用がポピュラーなルートでした。現在では接続などが悪いため、車とあまり変わらないくらい時間がかかります。新幹線は確かに早く便利ですが、防音壁があちこちに巡らされているため、景色がほとんど見えず、また各沿線の普段着の地元の方を見ることができませんので、旅味は落ちます。いつか青春18きっぷなどを使い、在来線で行ってみたいと思いました。

  湯沢駅です。

  駅から見る駅前通り。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~2

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
 西馬音内盆踊りの行われる羽後町はかまくらで有名な横手市と世界三大美人の一人である小野小町や稲庭うどんで有名な湯沢市に挟まれたところにあります。私にとって横手市といえば、同市の増田町出身で釣りキチ三平の作者である矢口高雄さんをまず思い浮かべます。同氏の作品の多くは少年時代の実体験をふんだんに取り入れ、実に生き生きと東北の寒村の生活を描いています。マンガの他、自伝的な思い出を語った「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」(共に白水社発行・講談社文庫版もあります)は貧しいながらも楽しく、懸命に生きる子供たちと、子供のことを本当に思った先生方や家族のお話で、どちらも、全国の小学校の先生に是非読んでもらいたいと思っています。またお父さんお母さん方もこの本により、今のモノが豊かな時代とは比べ物にならない程、豊かな人の心があった時代があったことを知って(あるいは思い出して)もらいたい思っています。
 話がそれましたが、湯沢駅から盆踊り会場までは、路線バスも出ていますが、当日はタクシーで行きました。料金は3千円ちょっとで、時間は10分もかからない位です。(湯沢駅から7kmほどです)会場入口の橋の欄干には彦三ずきんの踊り子の像が立っています。

橋を渡ると、いよいよ盆踊り会場がある本通りに入ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り~旅日記~3

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
タクシーで会場に着いたのが11時30分前で、そのまま盆踊り会館(祭り本部)内にある桟敷席の当日券売場に行きました。人出の多い年には、午後から並ぶと券が買えないことがあるとのことでしたが、私が着いた時はまだ15番目くらいでした。炎天下の下で行列を作り並ぶことを予想していましたが、冷房のしっかりと効いた涼しい室内でしたので3時の発売時間まで快適に待つことができました。





 当日券は個人別の椅子に座れる桟敷席が1人分2000円。4人まで座れる仕切り台(角材をテープで区切ってあるもの)が1本4000円。前に並んでいた千葉から朝4時に車で来たという女性写真家グループの方やその前にいたもう30年も通っている福島の方などから写真を撮るなら、仕切台がいいとのことや、場所も盆踊り会館が正面に見える位置がいいとのことを聞きました。後で分かったのですが、今年は先着順に好きな場所を選べるようになっていました。盆踊り会館の正面はスポンサー席になっているのですが、会館に向って右よりの前後A・Bが前売り券のための席で当日券は左よりの前後C・D席でした。(写真参照)踊りは盆踊り会館の特設舞台の上で演奏をしますので、そこが祭りの中心となります。




発売時間が近づくにつれて列に並ぶ人もかなり多くなってきました。仕切台は先着120本でしたので、後の人は買えない方もあったようです。私は会館を斜め前に見ることができる、D席の仕切り台を確保することができました。仕切台を購入した人にはうちわ(4本)、桟敷席を購入した人にはおまけに手拭がついてきます。
 席がようやく確保できましたのが、6時30分の寄太鼓まではかなり時間があります。会場の本通りの両側の店は臨時の土産店になっていてそれらに寄りながら、町並みを歩いてみました。各家には藍染のおおきな暖簾が掲げられ風情があります。



町のはずれにあるコミュニティセンターでは交流会が行われていました。会場内のホールでは踊りが披露され、会場いっぱいに人が溢れていました。踊りが終了すると記念撮影の時間となり、観客のカメラをお持ちの方がそれぞれ踊り子さんと一緒に写真をとったりしていましたが、思い思いのポーズの注文に嫌な顔ひとつ見せず応えていた町の方々の感じがとても良かったです。その時の写真がこちらです。



前述の30年通っている方の話ですと、写真は後ろ姿の首筋をメインに撮るものだとのことでしたが、後で写真を見直してみると成るほど皆さんそういうことも意識して写真を撮られていることや、着方を工夫して、首から下の背中側も少し覗けるようにして着るのが本式ということでした。



交流会が4時で終了し、再び本通りに戻ると歩行者天国となった通りには人が集まりはじめていました。黄色いビールケースも有料の仕切台、その上の足場ところが桟敷席です。会場はこの通りと写真の手前の場所から右側に30m程の所で行われます。
広場の周りに臨時の出店があるところでは、端縫い衣装を着た踊り子さんが店番をしていました。



この後ことわって写真を撮らせてもらいました。



4時頃から一時小雨が降りました。雨の場合は体育館に変更するということですが、体育館での踊りはやはり情緒が本会場と比べるとなく、また、後述しますが、雁化踊りの際の砂を踏みしめる踊りもできないですので(席取りの行列に並んでいた方のお話です)、なんとか晴れてもらいたいと思いました。
 結局夕方には雨は上がりましたが、濡れた有料席を町の高校生位の係りの方がひとつひとつ丁寧に拭いておりここでも町の皆さんの親切さを感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~4 よせ太鼓

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
6時30分になると盆踊り会館の特設ステージの上で、よせ太鼓と呼ばれるお囃しが始まります。この太鼓が合図となり、どこからともなく、踊り子が集まりはじめます。

歌い手さんは年配の男性が中心でしたが、三味線などはまだ高校生くらいの女の子など若い方が中心の編成で、笛・大太鼓・小太鼓・鼓・すりがねで構成されています。よせ太鼓の演奏は7時30分頃まで休みことなく続きます。このリズムはまったくジャイブそのもので、早く勇壮ですが、どことなくもの悲しい調べです。

動画はこちらへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~5 篝火

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
7時30分になると、いよいよ踊りの始まりです。この少し前に、係りの方が所々松明を設置し、点灯させます。30年前は街灯もなく、篝火の光のみで踊られていました。今にもまして大変幻想的だったそうです。



早い時間帯は主に子供の時間ということですが、お子さんだけではなく、小さい子供を伴った若いお母さん方や中学生の位の方、そして大人の方も多く見られました。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~6 音頭(おんど)と雁化(がんけ)

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
 西馬音内盆踊りは2種類の踊りがあります。一つは音頭といい、特に手のしなやかな動きとキメのポーズの指先が美しい踊りです。もうひとつは雁化(がんけ)といい雁(かり)が羽ばたく様子を現しているような華麗な踊りです。それぞれ云われがあるようですが、いづれも賑やかなお囃子から連想させる早い動きの舞いではなく、大変ゆっくりとした踊りです。

動画はこちらへ(音頭)

 7時30分から踊りが始まりますが、9時までは音頭のみの踊りとなります。9時になりますと、係りの方が踊られた皆さんに記念品(ボールペンのような感じでした)を渡し、子供達は帰って行きます。その後しばらく、雁化踊りとなり、以降音頭と交代で囃子て行きます。

動画はこちらへ(雁化)

 さて西馬音内盆踊りの大きな特徴のひとつが彦三(ひこさ)頭巾という黒子の頭巾を被って顔を全く隠して踊ることですが、初めて見る方は一様に驚くことと思います。亡者踊りとも言われているようですが、実際に踊っている方は若い子が多く、踊りが上手になってくる青年女子位になるとだんだんと端縫いを着るようになるそうです。彦三頭巾には藍染の衣装、端縫いの衣装には深い編み笠でというのが決まりとなっています。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~7 写真編

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り

フラッシュを使わずどこまで撮影できるか試してみました。

 

あとで見返すと、この写真が今回は一番気に入ってます。

 

ということで、ここまではノンフラッシュの写真をご紹介しました~フラッシュの写真は花や風景では絶対×で、おわらをはじめこういった幽玄な踊りでは使わずに撮影するのが原則で、特におわらでむやみにフラッシュを焚いている無神経なカメラマン気取りの方には言葉がありません。西馬音内も例外にもれずそういった方が多いですが、事情はおわらとは少し違っています。以前は撮影は禁止だったそうですが、現在はカメラマンの為に、別会場のコミュニティーセンターの駐車場で、撮影会を行っています。一人500円ですが、人気が高く早めに行かないと券が買えないそうです。また本通りの会場では、カメラは禁止ではなく、三脚が禁止ということと、輪踊りの中での撮影は予め許可されたマスコミ等の方々以外は禁止だということでした。もちろん会場の通りが狭いですし、距離も短く(八尾の上新町通りくらいでしょうか)三脚は事故の元ですし、踊りのじゃまをしてまで、撮影するのを禁止するのもあたりまえの話です。ところが、フラッシュは焚かないでくださいとの放送は(私がいる間は)聞こえませんでした。編み笠を深くかぶっているので、気にならないのかとも考えましたが、真正面から撮ったりすると光が入りますよね~ で、デジカメを液晶をふと見るとまったく真っ暗な絵ばかりが続いています。綺麗な衣装も暗い感じになってしまいます。そうだったんですね~と納得がいきました。  (※撮影の可否については、当日の感想です。祭り本部の正式なコメントではありませんのでご了承ください)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~8 端縫い衣装

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り
 西馬音内盆踊りの衣装はとにかく綺麗です。黒ずきんちゃんの(ひこさずきん)の藍染もいいですが、何種類かのハギレを繋いで縫った着物は、それだけ聞くと清貧なイメージですが、実物は配色が見事で、まるで、十二単のような趣があり、かなり高価なものと思われます。(ちなみに何軒かの店で、本物の展示と即売があり値段を見ると安いもので18万円~となっていました。それがいわゆる古着か新品かは私にはわかりませんでしたが、何点かは売約済となっていました)また、パンフレットなどによると、親子代々、祖母から母へそして子へと受け継がれている衣装もあるということですので、相当な貴重品であることは間違いないと思います。



同じ方の前と
        後姿です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~9 写真編2

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西馬音内盆踊り ~旅日記~10 旅の終わりに

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り

 西馬音内盆踊りの起源については、諸説あり、700年前に源信という僧が蔵王権現を勧請し豊年踊りを作ったという説や、400年程前、西馬音内城主の小野寺一族が滅んだ後、土着した遺臣達が亡者踊りを舞ったという説などがありますが、どこにも文書による記録はなく、定かではないとのことです。ただ古くから伝わる踊りには違いなく、かつては門外不出の幻の盆踊りでありました。 大宮で秋田新幹線に乗り、大曲駅で在来線に乗り換えると、直ぐにごさんねん駅という後三年の役がそのまま駅名になった駅を通り横手駅、湯沢駅へと向かいます。車窓から見る風景は過去の貧しい東北の寒村のイメージではなく、大手のチェーンストアーやビジネスホテルなどが目につき、全国が均一化しているとここでも実感した次第ですが、かつての東北地方は、冷害、旱魃による飢饉が周年で起こり、人々の暮らしは極めて厳しく、貧しいものでした。また女性達は男性優先の社会の元で過労働と様々な虐待を強いられた時代でもありました。江戸時代からの記録を見ると、やませ(東北特有の北東の風)による作物の成長不良により食べるものさえ、底をついた年も何度も何度もあったそうです。そういった厳しい時代に数百年間、休むことなく西馬音内盆踊りは引き継がれてきました。そこには我慢を強いられ、虐げられてきた女性達が年に一度、この盆踊りの最中にだけ、黒頭巾で顔を隠し踊る時間こそ、自己を開放できる唯一の機会であったと思われます。西馬音内盆踊りは送り盆の行事ですが、お盆に帰ってきた先祖や死者の霊と一体となり語り合い、踊り、そして送り出すということ。そして普段は人の為にのみ生きている自分がその時だけは、本当の自分に戻ることができる。この2つの側面があることにより営々と続けられたものと推測されます。 近代の音頭・がんけの踊り、そして端縫い衣装が現在通りに確定したのは昭和10年のことだそうです。それまでは、端縫いは中着として使われ、愛染衣装が主流でした。その年は秋田県の推薦で全国郷土舞踊民謡大会に参加し、これが契機で全国的に名前が知れるようになったそうですが、このときにそれまでいろいろな踊り方があったものを改良し、統一させ、衣装に端縫いも用いるようにして以来徐々に端縫い衣装が増えていったそうです。前年の昭和9年は特にやませが強く吹き、農作物は壊滅的なダメージを受けた年でした。この1年で山形県と秋田県の少女の身売りが60000人にも達し、人減らしのため男子は軍隊に志願させられ、人々の不安・不満が最大限に達していた年でもありました。そんな中、少しでも目を外に向けさせようと、行政が講じた措置がこの大会出場だったと想像するのは、それほど無理のない推測だと思われます。売られて行った子供たち、そして早く死んで行った子供たちの魂がお盆には帰ってくる。その子らと一緒になって踊るからこそ優しい踊りが出来ていったと思います。そんな事を思って見ると、艶っぽい踊りと言われる方もいらっしゃいますが、そうではなく、一人ひとりが心を込めて願いながら踊る一種の祈りの世界を垣間見る、そういった極めてストイックな美しさを感じさせるものではないのでしょうか。 また昭和10年に新歌詞を募集し、現在はその時の歌が主流だそうですが、もっとも優れた歌詞を数多く作った33歳の青年がその翌年、料亭に奉公に出されていた(身売りされていた)16歳の少女と心中したそうです。そんな時代だったんですね。 西馬音内盆踊りが長く伝統を守り続けたもうひとつの理由は、これは「おわら」やその他の文化的な伝統芸能全般に共通していることですし、貧困とは対極にあるもので、一見相反・矛盾しているようにも受け止められそうですが、豊かな地主階級の保護による莫大な資金力があったことが大きく貢献していることは間違えありません。大正時代の政府による風俗統制の波が一時こちらにも押し寄せてきましたが、奉公人の不満が募りまた家主もそれに反発し、すぐに元の踊りに戻って行きました。羽後町の西馬音内地区は特に地方有数の地主階級が多く住居していた場所だったそうです。本町通りにある黒澤家が当日開放され、中を自由に見学することができました。現在の当主の奥様がいろいろご説明してくださいましたが、往時の栄華をしのぶ大変立派な町屋つくりの民家で、奉公人も多数いた様子が窺えます。 抑圧されたエネルギーを開放する唯一の場とそれを保護し、育ててきた富裕階級の人々の存在が今の西馬音内盆踊りを守り続けていたといえるのではないでしょうか。 さて、国内では戦後の農地開放により、徐々に貧富の差も減り、人々の生活も安定してきました。現在では過去の貧しかった思い出を語る人も少なくなり、全国どこにっても、均一化されたサービスが提供され、国民皆中流意識が浸透しています。また貧しさから子供売ることもなくなりました。そんな中、こちら西馬音内盆踊りの現在はどうなっているのでしょうか。その象徴的な現象に端縫い衣装の流行が上げられます。全国的に見ても、娘の成人式に親が高価な着物を用意することが普通となっていますが、西馬音内盆踊りでもこれと同じことが起こっているそうです。可愛い子供には綺麗な衣装をと考えるのは当然の親の思いです。黒い頭巾をかぶる藍染の踊り浴衣の清楚な美しさよりも、豪華絢爛な端縫い衣装を選ぶ方が大変多くなってきているということでした。私のような観光客はその辺の事情は関係ありませんので、どうしても最初に色あわせの豊富な人目を惹く端縫いに目が行き、次いで非常に洗練された藍染衣装の美しさを見てとるのですが、以前はもっと彦三頭巾の方が沢山いたそうで、長く通われている方は昔はこうだったとおっしゃる方もいるそうです。私は人々がそれだけ豊かになってきている証拠ですし、こういった全国的な祭りは、伝統芸能とはいえ、日々時代のニーズにあわせて日進月歩進化し続けることにより高く評価されてくる時代ではないかと考えています。西馬音内盆踊りも保存会の皆さんが中心となり、旧来の伝統を守りつつ今後どういった風に変貌してゆくか楽しみに思えます。   羽後町や湯沢市での宿泊はかなり前に見つけておかなくては無理のようで、当日は秋田駅前のホテルを予約しておきました。そのため秋田方面行きの最終電車(臨時列車)に乗るべく10時30分過ぎに会場を後にしました。18日だけは湯沢駅までの無料のアクセスバス(羽後交通の貸切バス)が病院前から出ました。羽後病院は大きくどこからバスが出るのか迷いましたが、正面玄関に向かい左側の駐車場を挟んだの大きな道路にバスは止まっていました。バスは満員ではありませんでしたが、8割程度正シートが埋まっていました。10時50分予定通りバスは西馬音内を出発し、11時10分頃には湯沢駅に到着しました。駅ではJRの職員の方が出迎え、パンフレットを配っていました。 臨時電車は昔の特急車両を使っていました。指定席は埋まっていましたが、自由席は座れたようです。11時30分過ぎに湯沢駅を出発した電車は夜中の1時頃秋田駅に到着しました。

翌日は秋田駅から歩いて旧秋田銀行本店の赤レンガの建物(秋田市立赤れんが郷土館)などを見学に行きました。 赤れんがの建物は竿灯祭りが行われる竿灯大通りの近くにありますが、途中、川反(かわばた)と呼ばれる繁華街の裏に流れる旭川の景色が情緒がありました。

岡本新内が今にも聞こえてきそうです。

 

余談ですが、秋田の駅前通りで幻の稲庭うどんを限定で売っている店があり、食べることもできました。大変おいしかったです。 帰りは秋田から午後2時30分発の新幹線のこまちに乗り込みましたが、大曲駅でスイッチバック?があるため、進行方向が反対で発車しました。途中角舘や田沢湖で乗る方も多かったです。今回の旅行で特に感じたことは、店で応対する方からまったく秋田弁が聞けず綺麗な標準語が反ってきたこと。以前はどこに行っても秋田弁で話す方が多かったのですがここでも均一化された状態を見ているようで寂しいような気もしました。(田園風景は長野とまったく変わらないため、はるばる遠くに来たという実感がなかなか湧きませんでした~笑)ただどこへ行っても親切な方々ばかりでしたので、秋田はやはりいいところです。次回に行くときは、西馬音内盆踊りの優しく、美しい踊りの所作について、もう少し詳しく調べてみたいと思います。   最後に今回の写真で特に気に入った2つを載せたいと思います。  

次はいよいよおわらです。

これまでの記事を書くにあたって特に下記を参考にさせていただきました。

 「西馬音内盆踊り 公式ガイドブック06」

「西馬音内盆踊り--わがこころの原風景--」小坂太郎著(影書房刊)

「あきた町村長時報 羽後町 佐藤正一町長の随想」(平成11年9月号掲載)   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする