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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

私の新潟

2007年11月15日 | 新潟

 さて、ここまで先日行って来た新潟の写真をだらだらと載せてきましたが、新潟(市)の古き良き建築物は高度成長期の都市計画道路や開発により、ほとんど壊されてしまいました。またかつての水の都・あるいは柳都としての面影もあまり残されていませんが、かといってまるっきり古いものが無いのかといえば、そうでもなく、所々で戦前の建物を見ることができます。ただ面白いのは、どれもそれほど価値があるような歴史的建築ではなく、生活の必要上しょうがなく残っている様子です。新潟の歴史は水害や地震に数多く見舞われ、何度も町作りを繰り返してきたのですが、古いものがそう多くないのは、そのような事も原因なのだと思います。

 明治11年。おそらく、白人女性として初めて単独日本の東半分を旅行した(通訳は日本人)イギリス人女性イザベラ・バードが残した「日本奥地紀行」(東洋文庫)によると、当時の新潟市の人口は5万人を数え、また(資料は別ですが)新潟県の人口は144万人と東京の109万人を凌ぎ、2位の兵庫県の131万人を越え、全国一人口の多い県でした。「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」(平凡社ライブラリー)でイザベラ・バードの紀行文を紹介・解説した宮本常一は、同書第15編の津川から阿賀野川を舟でくだり、新潟まで入った情景を取り上げ、通常は、川岸に蔵が並ぶものだが新潟にはこれがなく、非常にうらぶれた様子という記述の解説として、信濃川という日本最長、最大の河川の出口であり、川の氾濫が激しく、川沿いはそれほど発展できなかった旨の話をしています。阿賀野川は「廃墟のないライン川」と美しい景色を絶賛していた彼女もどうも新潟市に入った印象派良くないようでした。イザベラ・バードは横浜から東京を出て、日光から会津まで歩き、そして阿賀野川を舟で下り、新潟に出て、今度は山形の上山から新庄、横手、秋田、黒石、青森、そして北海道まで旅をしています。季節はちょうど夏にあたり、どこに行っても蚊に苦しめられた旅のようでした。新潟について宮本が紹介しているのは、この良くない印象の15編で、次の16編は飛ばされていますが、その16編で、彼女は新潟の印象について次のように述べています。新潟はナポリよりも緯度が低いにも関わらず、冬は雪で閉じ込められ、また大変寒いのですが、夏は暑く、焼けた砂地の上を歩くので、公園と街路しか歩けなかった。しかし新潟は日本に来て最も美しく、綺麗な都市であったと書いています。当時の新潟の町は、運河が張り巡らされ常に舟が行き交い、非常な賑わいで街路も整備され、ゴミがどこにも落ちておらず、官庁や医学校など大変立派なものでした。これは当時の県令、楠木正隆による計画的な都市作りが行われた頃なのですが、そもそも新潟は長岡藩の一都市で、信濃川の土砂が堆積してできた土地であっただけの所でしたが、江戸に入り徐々に人と物が集まりはじめ、水運を駆使し巨大な都市へと発展して行きます。新潟市は広大な越後平野の米の集積所になりました。

 坂口安吾の故郷は新潟市ですが、本籍は旧・新津市で今まで知らなかったのですが、私の母の実家と2Kmと離れていないところでした。安吾の父親が明治18年新潟市に住むようになりましたが、本籍はそのまま新津になっています。坂口家は大変な大金満家で広大な田畑の他に銀山や銅山も所有していたそうですが、父の代に使い果たし、安吾の少年時代は大変貧乏であったといいます。また安吾の母親も五泉市の大地主の出身であったそうです。新潟地方には沢海の伊藤邸に代表される、桁違いの豪農・豪商が存在していましたが、故郷を否定した安吾にも当然その気質は受け継がれていました。少年の頃、安吾は家が恐ろしくてしかたなかったと述べていますが、理由については下記のように書いています。これは安吾の新津の実家や五泉の母親の実家のみならず、新潟地方特有の家の特徴を良く言い表していると思います。

「雪国の旧家というものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだっ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪岨の如きものが漂っているように感じられる。住む人間は代々の家の虫で、その家で冠婚葬祭を完了し、死んでなお霊気と化してその家に在るかのように形式づけられて、その家づきの虫の形に次第に育って行くのであった。」

 ところで安吾が暮らした新潟市の西大畑というところは、繁華街の古町のすぐ上手にありました。学校をさぼって、裏の砂山で昼寝をしていたそうです。安吾の碑がある護国神社付近も昼寝の場所だったようです。冬の雪国の気候は安吾の言うように陰鬱かもしれませんが、新潟の街に住む人々は陰鬱ではありません。どちらかというと明るい性格の人が多いのです。これは新潟が昔から地方から人々を受け入れてきた歴史と信濃川、阿賀野川という流域の長い河川の海への出口という地理的条件と関係しているのかもしれません。新潟は美しく、綺麗な町ですがそれだけではありません。今回、少し歩いて見ましたが、また調査に行く必要があると思いました。

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新潟駅

2007年11月14日 | 新潟
新潟駅万代口は今も昔と変わらぬ佇まいです。
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新潟 信濃川夜景

2007年11月13日 | 新潟

 

 

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新潟  日暮れ前

2007年11月13日 | 新潟

万代橋から見る柳都大橋と万代島

 

万代橋 

 

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新潟 萬代橋

2007年11月13日 | 新潟

 

現在の萬代橋は3代目の橋で、1929年に完成したものです。美しい六連アーチ橋で重要文化財に指定されています。現在は正式に萬代橋と書くようになりましたが、万代橋と書いていた時代が長く、我々もそちらの字に慣れ親しんでいます。美川憲一の「新潟ブルース」には、新潟の三つ名所・新潟駅、万代橋、古町通りが出てきますが、いずれも新潟の象徴で多くの人にとって、様々思いが凝縮されています。

 

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新潟 東堀通り 

2007年11月12日 | 新潟

 

 

 

 

 

昭和29年頃の新潟市内地図を見ると、まだ東堀通り、西堀通り、そして白山神社の古町寄りには運河(水路)が残っていました。運河は現在の道路幅の中央部に5m程の幅で流れており、矢板でうまく護岸され、所々階段が作られ、水が生活に利用されていました。川岸には所々柳の木が植えられ、水路の両脇には水路幅よりもやや広い道路が両側に付けられています。単に東堀と言っていますが、その運河の先(信濃川方面)を東堀前通りと呼び、手前が東堀通りとなっています。東堀は下町方面でコの字形に折れ、西堀と繋がっていまして、東堀、西堀が何れも白山神社前の1番堀に繋がっていました。すでに江戸時代の初期頃からこの運河はあったようですが、現在は見ることは出来ません。政令指定都市となった新潟市ですが、今後はまた運河の復活を期待したいところです。

 

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新潟 東堀通り

2007年11月12日 | 新潟

鍋茶屋

かつて新潟芸者は500余名を数え、北陸屈指の花街を形成していました。現在は埋め立てられ道路に変わってしまいましたが、東堀、西堀と町の中を水路が流れ、水運により生活・交通が行われた水の都でした。水路沿いには柳の木が植えられ、料亭では、常に芸妓衆による宴会が行われていました。現在では芸妓の数も少なくなりましたが、古町を中心とした、西堀、東堀の料亭では芸者さんを呼ぶことができます。

 

 

 

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新潟 東堀通り2

2007年11月11日 | 新潟

 

 

 

新潟といえば、柳です。

 

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新潟 東堀通り1

2007年11月11日 | 新潟

 

 

 

 

 

 

 

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新潟 万代シティー近く

2007年11月11日 | 新潟

 

 

 

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私の新潟  そして日本海へ

2007年11月10日 | 新潟

日本海タワー

 

 

 

 私が子供の頃は、海には未だ砂浜が広がっていました。

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私の新潟 学校町から水道町へ

2007年11月10日 | 新潟

 

 

 

 

 

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私の新潟 学校町通り3

2007年11月10日 | 新潟

 

 新潟総鎮守の白山神社横を抜け、新潟市役所前から新潟大学を横切り、学校町通り、そして水道町から日本海まで歩いてきました。この辺りは、信濃川と日本海に挟まれた、島になっています。信濃川の砂と日本海の砂が堆積し、建物は砂地の上に立っています。学校町通りは沢山に高校があり、朝夕は賑わっていますが、昼間は人通りもまばらです。

 

 

 

 

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私の新潟 学校町通り2

2007年11月09日 | 新潟

 

 

 

 

 

 

 

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私の新潟 学校町通り1

2007年11月09日 | 新潟

 

 

 

 

 

 

 

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