感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

ユングについて Ⅲ

2008年01月28日 | 雑記
 「無意識の心理」は具体的事例紹介が少ないこともあり理解がしずらい面もあるのですが、それでも主要なユング理論の流れが分かる構成となっています。そして特に、本書の中で、主論的に論考している無意識の説明には説得力があり、また驚くべき指摘もあるのですが、その中で最たるものを紹介すると、たとえば、人が転ぶ、交通事故に遭遇しケガをする、火災に合う、病気を患うなどの一見不可抗力と思える現実の個人的諸アクシデントについては、すべて事前に無意識の中での準備がなされていること。さらにそこには、その障害にあうことを自ら望んでいる自分がいるという指摘です。これはユングが精神分析を行ったところすべての被験者にその所見がみられたという事実からきている見解なのですが、これにより表面意識とその下にある個人的無意識、更にその下の集合的無意識の危険な関係が見えてきます。人は意識の支配するところの自らの意志により行動するばかりでなく、生を受けてから現在までの諸体験に基づくが、今はすっかり忘れている個人的無意識のみならず、それ以前の自分とは全く直接関係のない所謂人類の記憶により行動が司られているということです。人類の記憶とは人類の歴史と解しても良く、有史以前の未開の頃より行われてきた行動のみならず、そこに生きた人々の強い感情をも含有します。そこには悪しき思想による残虐な行為や、きれいごとでない人類の抑圧の歴史、悲惨な出来事の記憶も想念とし残されています。一方、この世のあらゆる現象が相対的であるがゆえに希求する絶対的なる存在への渇望。ユングによるとこういったものが、魔人や神々を作り出しています。前近代の一部とルネッサンス以前まではこうした客観的に説明の出来ない存在は主観的存在として表層意識の内にありましたが、産業革命以来自然科学の急速な進歩と思想の変動、特にマルクス主義の出現以降、人々は信仰を捨て、この世のすべての現象は論理的な数式をもって科学的に説明できるという幻影に獲り憑かれています。この表層意識に獲り憑いた幻影がかつての魔人を駆逐し、絶対的な神の存在を願う心を一掃してしまいました。しかるにユングの説によれば、そうした過去の魔人や神を信ずる心は集合的無意識の内に押し込められてしまっています。しかしこの原像は常に表に出る機会をうかがっています。そしてあるとき心の内部のエネルギーのバランス崩れると、エナンディオドロミーが出現し、表面の意識に背反して行きます。こうして、現代人の精神疾患は過去最大になっています。精神病の症例に退行化現象がありますが、これは徐々に若い年齢に精神の退行が進み、ついには幼児期まで遡るのですが、ここまでが個人的無意識の範疇となります。そしてその先の自分の誕生以前まで遡ってしまうケースが見られますがこれが集合的無意識の世界です。
 さて上記までこのユングの無意識理論について「無意識の心理」を読みながら考えることも含め述べてまいりましたが、集合的無意識という概念についてはユングの説以外にも他の可能性があるのではないかというのが自分なりの印象です。ただそれが何なのかということはまだ漠然としていますし、まだそれをうまく言い表せませんので、もう少し違うユングの本を読んでみようと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする