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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

ユングについて Ⅰ

2008年01月21日 | 雑記
「無意識の心理」  C.G.ユング/著 高橋義孝/訳 人文書院

 ユングの心理学における最大の傑作は正確には自著ではないが、弟子のヤッフェが編纂した、「ユング自伝」にあります。この奇書(といっても差し支えない)はユングの体験してきた内的世界の変遷を綴っていますが、ユングにとって内的世界(心の中の世界)とは、外的世界と同等あるいはそれ以上に客観的存在であったことがわかります。
 さて胸の振り子さんの夢を見ないという話を読んで、夢を精神分析に用いたユングはどのような考えでいたのか気になり、とりあえず手近なところの本棚にあったユング「無意識の心理」を手にし、読み返してみました。ユングの著作は昔「分析心理学」はじめ数作を読み散らかしたことがあるだけなので、内容は忘れたのでいい機会でした。もちろん素人には難しいのですが、ユングの著作のおもしろい特徴は、ユング思想のどんな解説本や解説記事などよりも、実際の著作の方が遥かにわかりやすいという点にあります。これは逆説的ですが、重要なことでユングの思想がいかに裾野が広いかということの顕れがその原因になっています。「無意識の心理」という題名はユングの付けたタイトルですが、この翻訳本を最初に出版したときのタイトルは新潮社(当時)の希望で「人生の午後三時」だったそうです。最初は何のことかわからず、またこのタイトルにふさわしい内容ではなかったのですが、本の後半も終わり近くになり、ようやくその意味が判りました。太陽は昼に最大の光を降り注ぎますが、それ以降の光は弱まってきます。人生も同様で、午後三時とはちょうど中年期を指しています。精神分析において、患者の年齢あるいは、それまでの患者の経験に付き、異なる方法を用いることが必要で、主として若い精神病患者に対しては、個人的無意識を解き明かせばほとんどが快方に向いますが、ある程度年齢の行った、中年層以降はその個人的無意識の下にある集合的無意識レベルまでの解析を行わなければなりません。ユングはこの集合的無意識をインド哲学における「業」と同じようなものであると言っていますが、この業ないしカルマについては2千年以上前より仏教思想では述べられたもので、それ以前には古代インドの神々より伝えられた考え方で、何もユング学派がこういう言葉を用いそれについての解釈はどうだというようにあえて新規で難しいものに解釈せずとも、世界の思想史を辿ればこの考え方が古くから東洋において言われ続けてきているもだということが判ります。学校の先生の中に特に簡単なことをあえて難しく教えている先生もいますが、簡単なことは簡単に言わないと子供達には理解できません。

 名文というものは、一字一句読まずとも、本を数ページぱらぱら眺めるだけでわかるものですが、それは日本語の並びが整然とし、澱みなき言葉の連続性と適度な空白の余韻に由来するもので、意外かもしれませんが、ページをめくって雑然とした活字の並びの文章は内容も然りです。これは日本の小説や論文にあてはまることですが、不思議なことに翻訳文にもあてはまります。ただそれは翻訳者の力に依存する場合もあるのですが、原文が名文ですと訳文も自然と名文となる場合が多いようです。もちろんこれは自分のインスピレーションでしかないのですが良い本は読まずとも判るものです。ユングの著作の中では、前述の自伝がもっとも優れているのですが(学術的にではなく、あくまでも読み物として)その他の著作も整然と語りかけてくるものがあります。

 「無意識の心理」はユング心理学の入門書のような位置にある著作で、フロイトの精神分析手法とアードラーの精神分析手法を紹介し、それぞれの立場でひとつの症例に対する異なる分析結果を提示し、なおかつ彼らの限界を指摘します。そしてユングの発見した手法での分析を示しています。ユングによれば、フロイト並びにアードラーの分析手法では、後に個人的無意識と呼ばれる自身の体験や経験に基づく無意識に由来する精神病患者の分析には有効であるが、個人的無意識の下にある無意識層からくる精神病については適用できないとし、また症例により様々な要因がコンプレックス(複合)している場合があり一つの理論のみで、すべてを解明するのは無理があると述べています。ユングはこの個人的無意識の下にあるものを集合的無意識と呼び、その後のユング心理学の中心的主題として提起しています。この集合的無意識については、ユング心理学における極めてわかりにくい造語の一つなので、ユング研究者でないと理解は難しいと思われ、また解説も何を言っているのかそれだけを読むと判らないところがあります。ところが本書「無意識の心理」において、ユングはある大変判りやすい例を出しています。ただこれは集合的無意識とは何ぞやと述べている文章中ではなく、かなり前の部分、論文最初の方のフロイトとアードラーの分析学に言及したところに出てきていますので、注意して読まないと、飛ばしてしまいそうな一文でもあります。それは道徳についての記述で、「どんな人でもだれから教えられなくても道徳心は生まれながらにもっている」という記述です。集合的無意識とはこのようにだれもが生まれながらにもっている心の傾向性のことを指す言葉だと思います。最近ミトコンドリアDNAについての研究がなされ、遺伝子について解明が進みつつあり、人類共通の意識の遺伝においてもいずれ解明されることと思いますが、それを待つまでもなく、人々の心(意識)には普遍の魂の痕跡ともいうべき共通意識があることは自明のことであろうと思います。
コメント (7)
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