第147段
「最近人が言い出したことであるが、お灸を据えて治療したことある人は神事(祭事)には障りがあると言う人がいるが、どこの規定にもそんなことは書いていない」
第206段
「徳大寺故大臣殿(藤原公孝公)が検非違使庁の長官であった時、徳大寺家の中門で評定(裁判)が行われていると、管使(職員)の中原章兼の牛が牛車から離れて邸内(庁内)に乱入し、長官が座る台座の上に登りそこにひいてある畳を食べながらしゃがみこんだことがあった。「これは大変怪しい気配の出来事である」と陰陽師の所へ牛を連れて行くようにと、そこにいた人々が言い出したことを父の太政大臣(藤原実基)がお聞きになり、「牛に分別なし。足があるのだから、どこにでも登るだろう。薄給の管使からたまに出仕するときに使う痩せた牛を没収するようなことはしないように」と申して、牛を持ち主に還し、牛がしゃがみこんでいた畳をお取替えになられた。陰陽師に引き渡さなくてもその後悪いことは起こらなかった。」
「不吉なことや、怪異なことがあっても、相手にしなければ、向こうから去ってゆく」
第207段
(第九十一段)の「赤舌日といふ事」に代表されるように兼好は、徹底的に俗説やいわれ無き迷信を批判しています。これは逆説的ではありますが、それだけ迷信に支配された時代であったことの裏返しとも読み取ることができます。当時最高の有識者であった兼好ははっきりそういった迷妄を否定する態度を持っていたのですが、それは以下の段に登場する極一部の人々の考え方であって、当時の大方の人の心には深く魑魅魍魎を畏れる気持ちがあった時代だということで、あえて繰り返しそうした風潮を批判する兼好の態度には、並々なるものを感じます。現在の常識を持って読むのではなく、そういった中世人の心持を常に思いながら徒然草を読まないと、本当に兼好の言いたかったことが理解できません。
第147段
「灸治、あまた所に成りぬれば、神事に穢れありといふ事、近く、人の言ひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。」
第206段
「徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に、官人章兼が牛放れて、庁の内へ入りて、大理の座の浜床の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。わう弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。」
第207段
「亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由を申しければ、「いかゞあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人申されけるに、この大臣、一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。たゞ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井河に流してンげり。
さらに祟りなかりけり。」
もちろん私はここで、徒然草についての感想及び自分の言葉による通訳文を書き始めているのだが、動機は単純で、一つの短文も読者により様々な観点、解釈がありいづれも読み物としては面白いのだが、何か違うような感じがしていた。もちろん自分が上手に思い出すことなど出きるはずもないのだが、最初に持ちえた直感に従い感じたことを述べてゆきたい。
話しはまた戻りますが、第105段において登場する「なみなみにはあらずと見ゆる男」ですが、一体誰なのでしょうか。兼好自身とする説もあるようですが、それは、第43段、44段に登場している方ではないでしょうか。
「春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賎しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし」
(第四十三段)
「あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つやゝかなる狩衣に濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門のある内に入りぬ。榻に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止る心地して、下人に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。
御堂の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のまゝに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。」
(第四十四段)
この2段は続いているので、若き男は同一人物の描写と考えるのがスタンダードな解釈だと思います。どういう事情か解りませんが、春の夕方、田舎ではあるが、大変由々しき屋敷に住まいする眉目秀麗な若者を兼好は目撃し、一体どういう方だろうと興味を憶えます。(四十三段)さらに秋になり、その若者がまだ童の小姓を引き連れて笛を吹きながら田の小道を歩いて行くところに遭遇し、後をついて行くと、山の際にあるお屋敷に入って行く。そこで、近くの方に聞くと「宮様がいらっしゃる頃だから」との答え。つまり、その若者は何かの事情でこの山里にいらっしゃる天皇の公子だったのです。この公子こそ、第百五段に登場する若者です。
「春ののどかな夕暮れ時に、田舎には似つかわしくない由緒ある佇まいのお屋敷の大きな木立の桜花が散っている様を見たくてその庭に入って行くと、南に面した格子戸がすべて降ろしてあり、家にはだれもいない様子であった。東側に回ってみると、妻戸が少し開いており、簾の破れたところから中が見える。そこには、年の頃20歳くらいの美しい若者が清らかな面持ちで、机の上に書物を開いて見ている。
一体どのような方なのだろうと、大変気になったものである」(第四十三段)
「月夜の晩、粗末な竹の網戸から出てきた若者は、童の小姓を引き連れて田の中の細道を稲の葉についた露に濡れながらも、笛を吹き歩いて行く。色は定かではないが、艶やかな狩衣に濃い紫※の袴姿という出で立ちでその高貴な様がいわくありげである。笛の音を聞く人もいないのに、どこに行くのだろうと後を付いて行くと、いつしか笛の音は止み、門のある寝殿作りのお屋敷に入って行った。榻※(しじ)に立てかけた牛車が見えるが、都よりも目立つので、その屋敷の下人に聞くと、「○○の宮様がいらっしゃり仏事を執り行う」と言う。 中に入ると、御堂の方に法師がやってくるのが見える。夜寒の風にのってきた、たきもの薫りが身に染み入る心地がする。寝殿から御堂に繋がる廊下を行き来する女官達の残り香も山里にも関わらず、大変気が利いたものであると感心した。 庭園内にこころのままに茂る秋の草野は夜露に濡れ、虫の音も大きく、鑓水の音ものどかである。都よりも雲の流れが速いような気がして月も雲で見え隠れしている。」(第四十四段)
※服装で色を言わない場合は通常男性は紫、女性は紅を表します。
※牛車のなげしを立てかける台(神輿の手前に置く台のようなもの)
四十四段の最後の風景描写がすばらしいのですが、この段においても「御堂」「匂ひ」といった百五段との共通点が見受けられます。御堂は仏事を執り行う建物で主殿である寝殿と渡り廊下で結ばれています。百五段に出てくる御堂も、同じものかも知れません。春(四十三段)に見かけた美しい若者を秋(四十四段)に偶然見かけ、そして冬(百五段)にまた見かける、兼好の清清しくも優しいまなざしを感じ取ることが出来ます。