感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

米山城の思い出

2007年03月30日 | 雑記
 戸石城(写真右)と尾根続きにある米山城(写真左)は、通称「砥石・米山城」と呼ば
れ、2つで一つの城として扱われています。どちらも村上義清が築いた城で、武田晴信
の軍勢を破った名城ですが、水の手を絶つことにより相手が降参するのを待っていた武
田方にこの米山城の山頂で白米を馬の上から流し、水が豊富にあると見せかけ、武田方
の戦意を喪失させたという逸話が残っています。村上義清は知略にも優れていたという
話ですが、その1年後、諜略によって真田幸隆に簡単に乗っ取られたところ見ると、
確かに戦はめっぽう強い武将ではありましたが、無骨な人の良い武人であったようです。
 真田幸隆は入城して、一時は真田の居城であった時期もありましたが、時代が下り、
近年には、村上の武勇を称え、山頂に村上義清の石碑が建てられています。
 真田方が入り城が焼かれた時、水のように流した米も焼けましたが、今でも山頂を掘
ると、黒っぽい生焼けの米が出てきます。




 右下の窪みは米が出てくるところです。


 私が小学生の頃、低学年は今は廃線となった電車で2駅位乗り、この米山城へ遠足に行
きました。先生は事前に白米伝説や村上義清の話、戦の話などをしてくださり、山頂では
確かに、焦げた米を拾いました。
先日数十年振りで登って見ると、山頂の窪みは物を燃やした跡があり、懐かしかった
のですが、これは今も誰かが、多分地元のイベントか何かで、この白米伝説を実地で行っ
ているようで、小学生の頃から今まで、本当に掘ると出ると思っていたのですが、当時
も先生方は事前に米を燃やして埋めておいてくれたのかなと、ふと思いました。当時の恩
師はいませんので、確かめようもないですし、その頃はこのような燃やした跡もなく、た
だ普通に木の枝か手で掘ってみただけのような気もするのでどうかなと今でも疑問です。
 私の年代やちょっと上の方も米山城遠足をしているので、こんど聞いてみようと思いました。




山頂からは上田盆地が一望できます。右端の中程に光るのが千曲川です。
また薄っすらと高いビルが見える右側が上田城です。
真下に並ぶ家並みは金剛寺集落で、この集落の先には、かつての松代街道であった
金剛寺峠があり、ここを越えて、移封時真田信之は松代に向って行きました。また江戸
末期には佐久間象山が、松代から馬に乗り地蔵峠を越え、傍陽(そえひ)からこの金剛
寺峠を越え、上田にて活文禅師より教えを受けました。



東側には烏帽子岳が聳えています。
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風林火山と真田一族の郷

2007年03月29日 | 雑記
 真田幸隆のといえば、息子昌幸とともに、諜略に長けた抜け目のない人物という、先入感がありどうしても好きになれない人物でしたが、今回その生涯を調べて見ると、実は一方で大変義理堅く、武勇にも優れた戦国武将であり、この人物を主人公にした小説や映画があったら大変おもしろいものだと思いました。上杉謙信をして、真田幸隆がいる以上は信濃を落とすのは容易ではないと言わしめたという逸話も残っているほど、武田晴信の武将として活躍しますが、その前は武田信虎と村上義清軍に真田の郷を追われ、上州の舅を頼って父海野棟綱とともに落ち延びて行きます。その後、機を見るに敏な幸隆は意見の違う父と別れ(一説には父を殺害して)敵であった武田家の家臣となり、旧領回復のための働きをします。上田原合戦とそれに続く戸石崩れの信玄唯一の敗北の後、諜略をもって内応者を作り戸石城を乗っ取ることに成功し、旧領を回復したのは、上州に追われて10年後の事でした。


写真は幸隆が落とした戸石城(砥石城)から真田の郷を望む風景です。幸隆の本城は写真右側の松の上部の枝のやや左側の小高い山。上に松の木が生えているところです。平時は同じく写真右側の松の木の上から2段目の黒く見えるところに居宅を構えていました。



 真田氏本城





本城からの眺望(南側)
写真で見ての通り、村上方の城であった戸石城は目と鼻の先。


本城からの眺望(北側)
上州へ抜ける鳥居峠への道が眼下に見下ろせる
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世界フィギュア2007

2007年03月28日 | 雑記
 昨夜は長野市のビッグハットに世界フィギュア2007エキジビションツアーを
見に行ってきました。安藤美姫さんや浅田真央ちゃん見ました!!
生でフィギュアは初めて見ましたが、テレビと感じが違うのは、スピード感という
か、特にメダリストの速さに驚きました。男子では高橋選手の4回転ジャンプの高
さや豪快さが一番凄かったです。ペアーでは中国のチン・パン&ジャン・ドン選手
の女性を放り投げ、回転しながら着地する所など、これまたテレビよりも大迫力で
した。女子では、中野選手のスピード感や体がどうなってるの???という独楽
が回るようなドーナツスピンも迫力でした。真央ちゃんはテレビとおりの綺麗な
演技でした。
 韓国のキム・ヨナ選手、演技に花があり手も長く綺麗でしたね~ただヘルニアの
為3分しか持たないのはかわいそうです。
 世界選手権で、ライバルが次々ジャンプに失敗して行くなか、ただ一人すべて
成功させて優勝した安藤選手。テレビのインタビューでも言ってましたが、ライ
バルは誰という前にまず自分との戦いだという言葉が印象に残っていますが、ま
さにその通りのスポーツなんだなあと思いました。よく考えるとすべての競技に
共通しているんですね~。ツアーのオオトリはこの安藤選手でした。ジャンプも
大変綺麗でした。

 ところで、演技後、お気に入りの選手に投げられる花束。それぞれ事前に買って
くるものと思っていたのですが、これらはどれも会場内で1000円から3000
円くらいで販売されています。一番多かったのは高橋、真央、美姫選手でした。
 実はこのイベントがあると知ったのはこの日曜日で、まだ残席があると新聞に
出ていたので、あわててチケットぴあのあるサークルKへ行ったのですが、販売
は10時からとのこと。それで10時まで30分位待って店長さんに早速端末で
アクセスしてもらうと、もう販売終了となっていました。それから同チケットを
扱っているという本屋さんに行くと、販売は長野の本店でしか取り扱ってないと
のことでした。一度家に戻り、電話をすると、シート席はすでに売り切れで、
後は立見席しかないとのことでした。しかも発売時間は今日の昼12時までと
いうことで、その時、時計を見ると11時過ぎ。うちから長野までは国道だと1
時間10分はかかりますので、高速道を使って駅前まで行ってようやく買ってきま
した。
 当日は立見席なので、もしかしたら人の後ろになってよく見えないかもと思って
いましたが、そんな心配はなく、なんと立見席は1万2千円の席の後ろにあり、
結構というか、ほんと良く見えました。ただ最前列のリンク内にある特別席(2万
5千円也)はフィナーレの再、選手達と握手したり、プレゼントを直接渡せたり
で、良かったです。ちなみに立見席は3000円(笑)です。次回は折りたたみ
の椅子とひざ掛けを持参すれば完璧です。  
 エキジビションの内容は世界選手権のエキジビションとほぼ同じ構成でしたが
ジャンプ回数は試合よりも少なく、安心して見ることができます。また1位の選手
はアンコールがあり、前半で10選手60分。休憩(氷の整備)25分位。後半
が8選手と全選手によるフィナーレで約60分の内容です。世界的な選手を目の
前で見ることが出来る、とてもいい機会でした。余裕のある方には是非最前列
をお勧めします。また立見でも十分に醍醐味を堪能できます。



もん吉の足が写ってます。


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一晩中

2007年03月25日 | My Garden
降った彼岸の雨は恵の雨か土を潤し、春の芽吹きを促す雨となりました。


うちで最も青黒っぽいオリエンタリス。



昨日買ったヒューケラ3種類の寄植え。寒さに強いはずのヒューケラ(ツボサンゴ)
ですが不思議と地植えだと冬を越さない場合が多く、ポットに植えました。
半日陰でもOKなので、重宝な植物です。カラーリーフを楽しむものですが、細くまっす
ぐ伸びた花茎に小さな花を付けます。



黄色のラッパ水仙はもう終わりかけですが、変わりにダブル系が咲きはじめました。
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朝は寒く

2007年03月21日 | My Garden

 このところ毎日快晴に近い天気で放射冷却現象か、朝は冷え込み、マイナス6℃やマイナス5℃の日が続いています。クリスマスローズは完全に地面にうなだれて凍り付いていますが、日があたってきて気温が上昇するお昼頃からは、茎を持ち上げ、元の姿に戻ります。ただし花芽が上がったきた時に氷点下が続くと、そのまま茎から水分が上に行かないまま、花が乾燥し、しぼんでくる品種もあり、特にダブル系統など、高価(笑)な品種はその傾向が強いです。

 

黄色系ということでちび苗で買ったものですが

やはりメリクロン苗ではないので、どこが黄色?と思っていますが、

冷たい扱いにも負けず毎年毎年元気に咲いています。

まあ、よく見るとこれはこれでかわいいですが

流金花

 今日は午後からは暖かく、裏の雑木の剪定や今年初めて買ったビオラをポットに植えました。 

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末後一句 正受老人

2007年03月20日 | 雑記
 真田幸隆の意思を継いだ昌幸は上田に城を築きますが、昌幸の長男信之は弟(真田幸村)や父と違い、時代の波に乗り、早くから徳川家の家臣となり、第二次上田合戦や直後の関が原の戦いでは徳川方として参戦します。そして、父の旧領を得て、上田、沼田9万5千石の上田領主となります。大阪夏の陣の後に松代に移封され13万石の領主となり、真田家の支配は明治維新まで続きます。真田氏の後に上田藩主となった仙石氏は6万石、その後の松平氏が5万石であったことに対し、松代藩真田氏は最後まで10万石の領主でした。

 幸隆のひ孫で松代藩主の信之の子供に正受老人と称された、禅僧道鏡恵端がいます。
正受老人は修行時代(19歳から35歳)を除く生涯を飯山の草庵で過ごし、座禅三昧の日々を送り、私利私欲、名利を離れた名僧で、その徳を慕い、多くの僧が修行しました。中でも、臨済宗の祖白隠禅師を修行が足りないと階段から蹴落とした話は有名ですが、正受老人は藩主の子でありながら生まれる前から母親と共に近隣の飯山藩に預けられ、16歳の時に仏門を志します。
子供の頃からある種の能力を持っていたようで、留守宅に来客が来ると、留守番の母親が指を噛んで来客を知らせたそうです。母親が指を噛むと、離れたところにいる正受老人の指も痛くなり、それが親子の合図となっていました。

「一大事と申すは、今日ただ今の心なり」

日々の暮らしを流すことなく、一日一日を最後の日と思い、精一杯大切に生きるということですが、正受老人の並々ならぬ禅への決意と衆生済度の思いを感じるとることができます。

正受老人は80歳の年、座禅を組み下記の遺偈を残し、入寂しました。

座死(ざし)

末後一句(まつごのいっく)
死 急難道(死 急にして道(いい)がたし)
言無言言(無言の言(葉)を言(葉)となし)
不道不道(いわじ いわじ)(ふどう ふどう)

これを訳すと

私はこれから座禅を組み入寂する。(座死)

私の最後の句は以下の如し。(末後一句)
死というものはすぐにやってくるが、悟りへの道を極めるのは大変難しいものである。(死 急難道)
言葉の無い言葉を言として(言無言言)
天道に逆らうことなく、又逆らえば、死はすぐにやってくる(不道不道)

のようになると思いますが、これではよく分かりません。特に言葉にしない言葉を言とし、の意味はどういうことなのでしょうか。禅問答特有の難しい言い回し、言葉です。また難道をいいがたし、不道不道をいわじいわじと読ませているところも不思議で、道をい又はいわとして使っています。

(末期の一句)とは、通常、究極な絶対的境地を示す句のことです。
また、(死 急難道)の死と急の間1文字分の間隔が空いていることも注意が必要です。
(言無言言)とは、仏陀の言葉(サンスクリット語)を初めて漢訳した仏説四十二章経に出てくる言葉で、行無行行、言無言言、修無修修と続いて使われています。
最後の(不道不道)は老子の言葉で、「物壯則老,是謂不道,不道早已」から来ていると推測されます。これは「万事勢いが強いということは、自然の摂理に抗しながらの結果であるので、衰えるもの早いものだ」という教えです。
又「いわじいわじ」と読むのでしたら不言不言あるいはそのまま言不言不と書くべき所でありましょうから、下の2句は、無言道道 言不言不とも置き換えることができることかと思います。本来臨済禅は庶民に眼目を置き、分かりやすいたとえをもって導く教えですので、難しく考えずに、読みそのままに訳すと次のようになろうかと思います。

私はこれから座禅を組み入寂する。死の前に遺偈を残し究極、絶対の境地について語らねばならぬが、人の死は急なことなので、その境地を文字で示すことは困難であり、又悟りの境地は言葉や文字で言い表すことは出来ないので言い残すことは何もない。(いわずいわず)

正受老人は呵々大笑しながらこの句を書いたそうです。

そこには「不立文字」「教外別伝」「見性成仏」といったの臨済禅の中心思想を見ることができます。
正受老人の草庵は正受庵として今も残っていますが、映画の「阿弥陀堂たより」にも登場しているそうです。


(流金花)

正受老人の老人とは単に年老いた人を指す言葉ではなく、尊敬すべき知恵をもった方の敬称でもあります。
正受老人のことを考えているうちに、飯山の本田のうなぎが食べたくなりました。
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サッカー大会

2007年03月18日 | 雑記
昨日は市の少年サッカー大会でした。
先日卒業式が済んだばかりの6年生はこれが、最後の大会。
惜しいところで、負けたものの、インフルエンザによる選手の欠場もあり
そういった事も考慮すると、出た選手は皆力を出し切っていて、見ていて
とても気持ちがよかったです。6年男子はどの子も試合後泣いていました。
にわかチームの女子チームも強豪相手に善戦し、練習時よりも更にいい
試合をしていました。結果は負けましたが、悔しさもいい経験だったと思います。
ところで、何十チームも出るこの大会、やはりFCのクラブチームの選手主体
のチームは断然強く、20対0なんていうのもありました。その子達のOB
の中には中学で全国レベルで活躍し、そのままJリーグに入る子もいますので
それだけの大差がつきますが、そういった訓練された才能のある子達に混じって
季節練習(笑)だけの、うちのチームもよく頑張ったと思います。
試合後、6年生を集めて公民館で慰労会を盛大に行いました。



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早春の荒砥城主居城跡

2007年03月15日 | 雑記




戦国時代初期は守るに易く、攻めるに難しい山城の時代ですが、平時は麓に居宅を構え、領主はそちらに住んでいました。
下に見える穏やかな段々田のあたりが居宅のあったところです。
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大河ドラマ「風林火山」と真田幸隆

2007年03月14日 | 雑記

 現在NHKで放映されている大河ドラマは井上靖の原作の風林火山です。武田信玄の軍師、山本勘助が主人公のこのドラマは大変おもしろく、毎回楽しみにしていますが、特に、佐々木蔵之助さん演じる、真田幸隆や清水美砂さんの忍芽などの好演もあり、原作にはない魅力も持っています。真田幸隆は小県地方を支配していた豪族、海野氏(海野宿に名前が残っています)の分家ですが、本家の海野氏が信玄の父、信虎によって滅亡された後(ドラマでは勘助の誘いにより)武田信玄の家臣となり頭角を現し、信玄が大敗し、落とせなかった村上義清の戸石城を幸隆が翌年あっけなく謀略をもって乗っ取ることに成功するほどの活躍をしています。ドラマでは真田氏の本城から距離にしてわずか数キロ先のところにある戸石城を眺望する景色が出ていましたが、これは多分、本城から実際に撮影したものに多少加工した映像で、地形その他大変よく作られているドラマだとと関心しました。 

 幸隆には武芸に秀でた子供が何人もいましたが、嫡男、次男とも、武田勝頼の代に入り、長篠の戦いで、討ち死にします。嫡男の信綱の墓所がある信綱寺には今も戦死していたとき着ていた、血染めの陣羽織が残されています。真田家の家督は三男の正幸が継ぐことになりますが、この正幸がまた智謀に優れた武人で上田城を築城し、徳川の大軍を二度退けています。正幸の子が真田太平記で有名な真田幸村です。幸隆夫妻は終生大変仲が良く、息子正幸とともに現在も長谷寺の墓所に夫婦並んで眠っています。  

 さて、これからはいよいよ戦国のカリスマ上杉謙信が登場するので、益々ドラマが楽しみになります。こちらの写真は豪族の山田氏の荒砥城とそこからの眺望です。ドラマのロケでも使われ、海ノ口城の戦いの時にこの景色が使われていました。海ノ口は南佐久ですので、荒砥城のある戸倉上山田とはちょっと場所が違いますが、イメージですからね。  ところで、長野県内どちらも観光戦略として、格好の宣伝になるこの大河ドラマ放送を見逃すはずもなく、あちこちで「風林火山」の登り旗を見かけます。そして幸隆ではありませんが、それぞれ智略を絞り、広報活動に余念がありません。ブームに乗り観光戦略をということはもちろん必要なことで、当たり前の事ではありますが、一方に歴史を知る人からは一部疑問の声、不快感を持つ方もあることは事実です。特に佐久地方などは何千、何万人もの人が殺され、また女子は売られていった過去があり、その他県内各地も信玄に侵略・蹂躙された経験を持っています。また時が流れ、こちらでは武田家臣団を先祖にもつ家系の方も多くいらっしゃいますので、そのあたりは複雑になっていますが、いずれにせよ、私個人的には信玄の行った戦略は侵略そのものと略奪行為であると思います。一方、生涯、毘沙門天の化身として、義の為にのみ戦った上杉謙信こそ、真の武人であり、信濃の人々にとって信玄を敬うのは親や子供の敵(かたき)を敬うようなものであると思います。  

 

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鬼女紅葉

2007年03月12日 | 雑記

 第六天魔王に願い生まれた、才色兼美の美女紅葉は、琴を都で教えていましたが、源経基の御台所に召され侍女となりました。やがて紅葉は経基の子供を身もごりますが、邪法を使い、御台所を殺そうとしますが、比叡山の大行満律師の法力により、企てが露見し、紅葉は捕らえられ、信濃の戸隠に流されました。「御台所の嫉妬で流された」とうそをついた紅葉を根上がりの里の村人は哀れみ、内裏屋敷を建て住まわせました。この麗人は村人に病があると、加持祈祷により病気を治癒させました。紅葉はこの里に東京、西京、一条二条など、都にちなんだ地名を付けましたが、子供が生まれると、やはり経基に会わせたく思い、村人には、「経基の迎えのものが来た」といい村を離れ、戸隠山中に住む山賊一味を見方に付け、村々を襲わせ軍資金を集め、京に向かう準備をしました。このことが冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂に追討を命じ、維茂は山賊を打ち破りますが、戸隠の岩屋にいる紅葉は、妖術を使い、維茂の軍を道に迷わせます。妖術を破るには、神仏の力によるしかないと考えた維茂は、上田の別所にある北向観音で宝剣を授かり、紅葉を成敗します。紅葉三十三才でした。維茂は水無瀬の一堂を建て「釜岩紅葉大禅尼」の法名をおくり、弔いました。

  これが鬼女紅葉の伝説ですが、おそらく事実は全く別のものだったと思われます。紅葉は濡れ衣を着せられて、無念の最後だったのではないか。そんな事を紅葉のお墓がある鬼無里村(現在は長野市)のお寺からの帰り道、吹雪の裾花渓谷を眺めながら、ふと思いました。

  来月、天台宗では明治以降初めて長野県出身の半田孝淳大僧正が天台座主に就任いたします。ご出身は上田の古刹「常楽寺」で北向観音の本坊でもあります。傳燈相承式は四月二十六日、比叡山延暦寺総根本中堂にて行われます。

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クリスマスローズ

2007年03月11日 | My Garden
今日は天気予報と違い朝のうちに雪が舞いましたが
それ以降気持ちのよい晴れ間が続き絶好の園芸日和…となるはずでしたが、
午後から少年少女サッカーの練習があったので、グランドへ。
グランドは強く冷たい北風が吹き、走っていないと寒さに身が縮みます。
先週の練習の時、右足の親指の爪に少しひびが入っていたのを忘れて、思い切り
ボールを蹴ったら、又しても親指を直撃し、爪がはがれそうになりました。
ということで、夕方は庭に出ても園芸はせず、ひたすら咲いてきている
クリローの写真を撮りました。来週はいよいよ試合なので、頑張ってもらいたいと
思います。




ブラック丸弁ダークネクタリー



丸弁ピュアーホワイト



同じものを正面から



ホワイトにピンクスポット裏やや血管系


赤紫血管系



以前に種まきした実生苗をいただき咲いたダブルピンク(今年は爆発しそうです)
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そろそろ

2007年03月10日 | My Garden
クリスマスローズが揃って咲きはじめました。
今日の写真はいずれも、元はチビ苗198円也
高級苗(笑)はこれからです。
オリエンタリスは咲いてみないとどんな花なのか解りませんので、
それも楽しみのひとつです。
クリスマスローズの花に見えるところは実はガクで、
オシベのまわりのネクタリンの部分が花です。
ハナミズキもそうですね。





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春は黄色で

2007年03月09日 | My Garden
春に最も早く咲く花は黄花が多い。
目立つ色だから、

福寿草、たんぽぽ、水仙などなど 
水仙の花言葉は「うぬぼれ」ナルシストのナルシス(Narcissus)の学名を持つそうです。  





この水仙は植えっぱなしでも忘れずに他の花に先駆けて春一番に黄色の花を咲かせます。

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オリエンタリス ピュアホワイト

2007年03月07日 | My Garden
庭のクリスマスローズの蕾が上がってきています。
咲きはじめているもの、蕾が地面から上がってきたばかりのもの。
いろいろですが、今朝の氷点下の冷え込みで一様に茎の部分が冷凍状態
になっています。今日はまだ微冷凍(パーシャルからチルド)なので、
日中気温が上がり出すと、また咲きはじめます。

これはオリエンタリスホワイトの丸弁(若泉ナーサリー作)ですが
開くとまん丸になります。通な皆さんは、やはりこだわりのシングルで
クリスマスローズを極めておられます。



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おいしい甘露煮

2007年03月04日 | 釣り

 おととい富山で釣ってきた岩魚・山女。黒部川は放流物ですが、片貝は天然物です。全部で31匹ありましたので、保存の効く甘露煮を作りました。昔は燻製も作ったりしましたが、今回はサイズが小型ですの、甘露煮向きです。

  作り方

1、内臓を取ります。 このときエラはなるべく取りません。 又最小限に切り身を入れて取るのがコツです。(エラを取ったり、大きく切り身を入れると、煮ている最中に崩れてしまいます。)

2、庭で、バーベキューコンロに着火材+炭を入れます。点火し、置火(炭から火が上がっていない状態)になるまでひたすら待ちます。

3、置火になったら、網に塩を振った岩魚をおき、焼いていきます。置くときは塩の面が下になるようにします。(網にこびりつかないように)

4、焼き加減は目安は目が白くなる程度でOK

5、焼きあがった魚は、熱が取れるまで、乾かしておきます。翌日までまってもOK   このとき、外猫・ノラ猫が狙いにくるので十分注意が必要!!(笑)

6、底の大きな鍋(すき焼き用にしました)に水洗いした大豆をひいておきます。  そこに魚をイカダ状に並べて行きます。(本当は1段積むとその上に大豆を並べ、ま  た魚をおくそうです…以下繰り返し)

7、あらかじめ用意した番茶を魚がひたひたになるまで入れ落とし蓋をして煮込んで行きます。

8、味付けは醤油+みりんが基本で、好みで三温糖、酒、水あめ(仕上げ時)を入れます。量は煮汁の味を見ながら適当に入れます。

9、番茶がほぼ蒸発したら完成です。 今回は砂糖をほとんど入れなかった事と塩焼きにするとき塩を振りすぎたせいか、それを考慮せず、醤油を入れたために、しょっぱ目になってしまいました。

       完成した甘露煮 

       出来上がった直後

 

       完成品を狙いにやってきたもんじゃ

甘露煮にすると小さい山女魚や岩魚は頭から骨まで柔らかくすべて食べられます。

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