感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

エマニュエルとメアリーローズ

2007年09月29日 | My Garden

エマニュエル

 

メアリーローズ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生島足島神社

2007年09月28日 | 雑記
「風林火山」ゆかりの地、上田

井上靖原作「風林火山」が大河ドラマで放映されていますが、これは主人公の山本勘助を中心に戦国最強と言われた武田軍団の活躍を描いたものです。武田軍団といえば、地元山梨県と川中島合戦、家康を破った静岡県の三方ケ原の戦い、そして武田家滅亡のきっかけとなった長篠の戦いが有名ですが、信玄が武将として生涯の大半を費やしたのは隣国の信濃の制覇でした。室町幕府の弱体化に伴う守護大名の衰退と変わって力をつけてきた、地方豪族の登場により全国各地で内乱が起こりましたが、有力で巨大な豪族のいなかった信濃は、まさに武田の草刈場となっていました。当時信濃国には守護大名として小笠原氏がいましたがもはや信玄に抗するほどの力はなく、信濃の南半分と佐久地方はあっという間に信玄の勢力下になってしまいます。最初は敵対していた武将、敗れた武将、負けを見越して武田方に付くものと様々ですが、武田に付いた武将は信濃先方衆と呼ばれ、武田の信濃攻略の最前線で活躍します。武田信玄の信濃での最大の敵は村上義清で、現在の坂城町の葛尾城を本拠としていましたが、今も坂城町には村上という地名が残っています。さて佐久を平定した武田信玄ですが、次は村上との激突です。しかし村上は大変強い武将でした。村上との直接対決となった、坂城町と隣接している上田市内の「上田原の戦い」では信玄初めての負け戦となりますが、それは大敗と言っても良く、上田原古戦場には、戦死した武田家随一の武将であった板垣信方の墓が今も残ります。たばこが好きであった板垣は石の上で一服している所を敵方から何本もの弓矢を受け、亡くなったそうですが、その板垣を偲び、たばこの煙が線香代わりに供えられています。上田原での戦いの2年後、村上方の居城があった砥石・米山城(上田市)での戦いでは、20日間の猛攻にも関わらず、城は落ちず、逆に引き上げて行く武田方に追い討ちをかけた村上方に大敗を喫します。2度もの大敗に武力での制圧から方針を変えた武田方は、得意の調略(敵方に武田の内応者を作り裏切らせる)に乗り出します。その立役者が池波正太郎「真田太平記」の中で家康相手に大活躍した真田幸村の祖父にあたる人物で、真田幸隆です。元々真田一族は長野県小県地域の名門豪族である海野一族の出身ですが、当時傑出した智将であった幸隆が元々敵対していた武田方に付いたことにより、武田の信濃支配は急速に加速して行きました。砥石城の戦で敗れた武田信玄ですが、村上方の武将であった真田幸隆の実弟を調略し、翌年には砥石城を乗っ取ることに成功します。以降、急速に村上義清の力は弱まり、村上は越後の龍、上杉謙信の元に去り、武田の信濃支配が完了しました。村上という緩衝地帯があったことにより対決することがなかった武田、上杉両軍ですが、これ以後11年に亘り川中島合戦が繰り広げられます。近年出た新しい見解に最強と言われた武田軍は必ずしも、一枚岩の鉄の団結を誇った軍団ではなく、力のある有力武将の寄せ集めで、本当に武田軍が完成したのは、信玄晩年頃の「三方が原の戦い」であるという説があります。この根拠となる資料が上田市の生島足島神社(いくしまたるしま)に残されています。そこには、上杉との戦いの前に、絶対に裏切らないよう旗下の武将に信玄が誓わせた血判状(起請文)が数多くあり、それをもって信玄という人物像を実はいつも仲間の裏切りに怯え、人をむやみに信用しない人物であったとする論者も出てきています。真実のほどはわかりませんが、武田の調略は特に有名な戦略ですので、あながち否定できないものもあるような気がします。また信玄が甲斐の守護となったのは実父を追放したことによりますし、後年、嫡男も殺しています。強い者の陰でいかに多くの弱者が切り捨てられ、殺されていったかということについては、歴史の必然とするのは容易いですが、歴史は現在まで繰り返しています。信玄は志半ばでこの世を去りますが、その時点ではまだ、追放された実父は生きていました。追放された父(信虎)は、信玄死去の報を聞き、何を思ったのかは、資料が残されていませんので想像するしかありません。


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良く見るためには

2007年09月28日 | おわら風の盆
 昨日はせっかく風の盆に行っても、よく見えないパターンということで、少し書きましたが、良く見るためには、それとは逆のことをすればいいのですが、それにはまず体力が要りますので、本当に沢山見たい方は、6月頃から少しずつ準備として長い距離を歩くなどして足腰を鍛えることから始まります(笑)おわら見物はとにかく歩いて歩いて歩き、時として走る場合もあります。あとは、見る場所はなるべく地方の後ろについて見ることで、たまたま道路脇で見たときは、踊り子と地方が通過したあと、するすると見物客の間を抜け、地方の後ろについて行くことです。一つの町の地方について行くと、他の町の集団と遭うこともありますので、そうしたら次の町の集団へ移動します。同じ場所で座って休んでいる分にはいいのですが、おわらが又来ることはほとんどありません。何故なら彼らも移動しながら演技をしているからです。それから、正規の行事予定として、上新町と鏡町の公民館には町流しのルートを書いた紙が掲示板に貼ってありますので、それを良く見ておくと今頃大体どこにいるということが分かります。
 以上は、体力のある方向きの見方ですが、体力に自信のない方でもおわらは十分楽しめます。それは、町内にあるいくつかある演舞場での演技を見ることで、町内で当日配られている予定表を良く見て、その時間の終わり頃に出かけると、次の演舞時間の時には最前列で見ることができます。ただ相当一箇所で待たなくてはなりませんが、一日歩いていては大変ですので、休憩を兼ねて待っているといいかと思います。あと今年は車椅子の方を天満町や鏡町階段下でも見かけましたが、鏡町では車椅子の方は優先して舞台踊りの時見やすい場所に誘導していましたし、天満町では観客同士が場所を譲り合っていました。
 風の盆を良く見るためには、なるべく一人で見に行くのがベストです。人数が多いほどそれに比例して制約も多くなります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見えないポイント

2007年09月27日 | おわら風の盆

 風の盆の行事は1日、2日は午後2時過ぎから6時頃までと、夕食を挟んで7時頃から夜の11時30分頃までが各町の正式行事となっています。時間は町毎に若干異なりますが大体このような時間帯で輪踊り、町流しが行われます。3日になりますと、昼間の行事は行われず、午後7時からやはり12時近くまでが正規な時間です。それから朝方までは、町としての拘束はなく、それぞれ各人の判断で町流しなどが行われます。午後2時から朝5時頃まで長丁場ですので、もちろん途中、大小休憩が入りますが、見学者も途中で休憩をとりながらの見学となります。昼間のおわらは2日間の夫々数時間しかありませんので、できるだけその時間に写真を撮っておかないと、カメラの性能にもよりますが、夜の写真は真っ暗で真っ黒だったという方もかなりいらっしゃると思います。今年は3日間で20数万人の観光客が訪れましたが、夜8時頃のピーク時には、歩行者が前にも後ろにも進めないすし詰めの満員電車状態になっている通りもあり、おわら踊りを見るつもりが、観光客しか見えない場合もあります。来年は風の盆に出かけようと思っている方やせっかく訪ねてきたのに見えなかったという方のために私の乏しい経験から、どうしたら良く見えないかを上げてみたいと思います。

良く見えないポイント 

 昼間編

①  人ごみを避ける人

人ごみの中に踊りの輪があります。

②  通りの横で立ち止まり、そこで通過して行く踊りを見る人

通過して行くのは一瞬で、次の踊りの集団はなかなか来ません。

夜編

①  諏訪町に行く人

人多すぎで、身動きがとれません。

②  鏡町の階段でいつまでも待っている人

町流しの間は留守。舞台踊りは時間が決まっている。

③ 上新町通りなどの大通りで動かず待っている人

町流しは狭い通りでも行われます。

深夜編

① 鏡町階段で待っている人

例年朝5時近くまでは鏡町本隊は来ません。

(但し他町の集団はそれ以前でも来ることがあります。)

② 諏訪町で待っている人

深夜も人が多いのですが、なかなか町流しに合えません。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風の盆 最終日 1

2007年09月26日 | おわら風の盆

4日 朝  今年の風の盆最後のおわらです。

 

 

  風の盆が終わり、当初は月見のおわらまでには今年のおわらネタを終わらせようと思っていたのですが、まだ少し写真が残っていることと、まだまだ話足りませんので、月見のおわらが終わった後も気分でいろいろ載せて行きたいと思っています。月見は当然見に行きますが、その後しばらくは同じおわらネタでも、風の盆と月見の写真が順不同で、出ると思います。月見のおわらについては、イベントとしては大変時間が短いのですが、絶対風の盆本番では見ることができない、諏訪町や上新町での天満町などの町流しを見ることができますので、楽しみにしています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名月 上田城

2007年09月25日 | 雑記

今日は仲秋の名月で、珍しく全国的に晴れで良く月の見える夜でした。ということで、上田城にかかる月を撮りに出かけましたが、同じ事を考えているおかしな人がもう一人いて驚きました。更に外灯のみの暗い堀の外周を走っている人も多く、夜とはいえ多少賑やかです。カメラには70mmのレンズがつけっぱなしだったので、思うようなアングルではとれず失敗でした。

 

 

 

こちら↓は300mm側で撮影

女性は月を見ないほうがいいそうです。 

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島(ふくじま)

2007年09月25日 | おわら風の盆

 7月に行われた演技発表大会の時もすばらしい演技で印象に残った福島支部の皆さんですが、八尾駅前通りという大変混雑する場所にあることと、旧町内の上新町通りなどからは大変離れているので、今年も行くことはありませんでした。3日午前4時頃に始まった西町での各町若手有志の演技を偶然目にすることができましたが、中でも福島支部男子の踊りはずば抜けて迫力があり、感動しました。後から考えると、掛け声が一際大きく、踊りも揃っており、福島は地方がしっかりしているだけでなくさすがおわら人口が一番だけあって総合的でも優れているのだと思ったわけですが、如何せん期間中は行ったことがないでの、情報そのものが少ないのも事実ですが、駅前にありますので、体力に自信のない方などには特にお勧めできると思います。

 

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザ・ピルグリム

2007年09月25日 | My Garden
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深夜の西町

2007年09月24日 | おわら風の盆

 午前0時を過ぎると、どこからともなく集まりはじめた踊り子が、気の合ったもの同士で新踊りが始まります。おわら踊りは情感を内に秘め感情を外に現さない踊りで、昼間は笠で顔を隠しますが、深夜は笠を取り素顔を出して踊ります。表情は能面のように硬く喜怒哀楽を表に出して踊ることはありません。緊張感ある踊りの所作や、祈るよう眼差しに踊り手それぞれの様々な思いを感じることができます。おわらの美はそういったストイックな美しさでもあります。

 かつて比叡山の日吉大社に偽って巫の真似をして忍び込んだ若い女性が深夜、十禅師の像の前で、鼓を打ちながら、とうとうと詠っている姿を人に見られてその気持ちを問われると「生死無常のこの世のことはともかく、ただ後世(来世)は助け給えと祈る気持ちでした」と話していた。 これは小林秀雄が「無情ということ」の中で引用したことで大変有名な一言芳談 の中にある文章を私が意訳したものですが、一言芳談は鎌倉初期の念仏修行者の法語を集めたもので、浄土宗の本質を現している文章ですが、この文章以外はすべて修行男性の記述でおもしろみにやや欠けますが、こちらの文章はその中で唯一の一般女性の記述となっており、そこには優しい趣や風情があり、名文となっています。小林秀雄がこの文を冒頭に引用して続けた後の解釈については、いずれ感想を書きますが、深夜のおわら踊りを前にしてふとこの若い女性達と鎌倉時代の若い女性(原文ではなま女房ですが)が重なってくるような錯覚を感じました。

 おわら風の盆の3日間、昼夜繰り広げられる踊りは他所では見ることができない高い精神性を持った踊りのような気がします。

 

四季踊り 秋 

 

 

 

 

 

 

四季踊り  冬

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笄(こうがい)の渡しと女涙坂(おなみだざか)

2007年09月23日 | 雑記
 今日の大河ドラマ「風林火山」で、村上義清の奥方「玉の井」が葛尾城から抜け出し、千曲川を渡る時、村人の舟を借り対岸へ渡るシーンがありました。戦に巻き込まれないよう躊躇する村人でしたが、相手が村上夫人であることを知ると危険を冒して舟に載せます。夫人は礼として、自分が身につけていた髪につける笄(こうがい)を渡します。その後、対岸に着いた夫人とその一行は、待ち伏せしていた武田方の「馬場信春」の軍勢に追い詰められ自刀します。
 坂城町と戸倉の境近くある千曲川のほとりに、現在も「笄の渡し」として史跡が残されています。対岸には夫人が自害した場所であるという姫宮の跡碑があり、ドラマではその説を元に放送されていましたが、船頭に類が及ばないよう舟から身投げをして、川中島付近まで流されて、農民に匿われて助かったという説や、対岸に渡り、落ち延びる途中振り返ると葛尾城が燃えているのを見て涙を流したという由来が残る女涙坂を経て東国寺に逃れ仏門に入ったという説などがあります。
 村上義清はその後、上杉家の家臣になり、川中島の戦いでは、敵の有力武将である武田典廐信繁(信玄の弟)を討ち取ります。義清の奥方がどうなったかは、おそらくドラマでのあらすじが自然の流れのような気がしますが、武田滅亡後、再び坂城の旧領に嫡男の国清が城代としてはいることになります。
 武田信玄に敗れたあるいは、武田についた東信濃の武将が多く登場しますが、その子孫が現在も多くこちらに住んでいます。また私の親戚にも武田方の有力武将を先祖に持つ家もあるのですが、身近なところでは今日登場した馬場美濃守信春の子孫が知り合いにいます。馬場家は現在も何年かに一度、一族が集まり先祖祭りを行っているようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミセスBRカント

2007年09月23日 | My Garden
久し振りにバラの写真。ミセスBRカントです。先月も咲きましたが、今回の方が色合いがいいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座 3

2007年09月22日 | 東京
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座 2

2007年09月22日 | 東京
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座 1

2007年09月22日 | 東京
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宿泊と雨

2007年09月21日 | おわら風の盆
風の盆の期間中は、普段は閑散とした町内も都会の雑踏のような混雑した状況となり加えて宿泊施設は極めて少なく、町内での宿泊は非常に困難です。それに加え、近隣の旧富山市内や近くの温泉地、金沢市のホテルまで当日は満室な状態となっていますので、急に思い立って見に行く方には、宿探しが大変です。私は最近は富山市内にあるホテルを予約開始日に3泊分予約しておきます。この予約開始日はホテルによって異なるようですが、チェーン展開しているホテルはその日の早いもの勝ちで自動的に予約が入るので便利です。もちろん3泊といっても、1・2日は午後2時には八尾に居なくては意味がなく、そのまま翌朝まで町内にいますので、ホテルに滞在するのは朝からお昼過ぎ頃までの短時間でもったいないような気もしますが、やはり重宝します。中には富山市内のサウナに滞在する方もいるようです。元々、渓流釣りで富山県によく行っているので、河原での車中泊も好きなのですが、近頃は駐車場がなかなか近くに確保できなくなっていることと、諏訪町にあった銭湯がなくなり、不便なこと(福島には1軒ありますが)。駐車場所を確保しても、温泉施設まで行き帰りにまたその駐車場所が確保できるかが問題なので、最初は用心のためにホテルを予約しておきましたが、今では富山市内のホテルも便利だと思ってきています。今年は八尾から車で富山まで往復しましたが、始発の富山行きに乗るのもいいものです。幸い雨は3日目の夕方降ったのみでしたので、徹夜組も雨宿りをする場所の確保は必要ありませんでしたが、雨が長引きそうな場合は、やはり車があると大変便利です。雨が少しでも降ると町流しはなく、観光客にとってはとても残念なことではありますが、地元の人にとってはそれ以上に残念なことですので、雨の晴れ間晴れ間を縫うように、町流しに出る場合もありますので、観光客も諦めず待っていると、すばらしいおわらを見ることが出来ることがあります。






コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする