緑の切妻屋根の家が建つ

60代も後半になり、ひょんな事から一人住まいの実家を建て替えることになりました。

「なつぞら」に思う戦災孤児の件

2019-04-08 13:02:43 | ヘミシンク
 もう、今から74年前戦災孤児が大勢いて、それから過酷な運命をたどった方々の記事もたまにネット上で拝見する。「なつぞら」の主人公なっちゃんは恵まれたほうだろう。

 私も戦災孤児ではないが(片親が戦地からもどってこれたため)空襲で子ども達だけになり、えんえんと山形県から静岡県東部のこの地まで、線路を伝って歩いて疎開してきた人たちの話を聞いたことがある。

 それは私の母親の血のつながらないいとこたちのことだ。私の母親の母親というのは、長女である私の母親とその下の3人の子どもたち残して、若くして肺結核でなくなってしまった。私の母方の祖母は長女だったため、その長女である私の母には、祖母と年の離れた妹の産んだ子はいとこになるのだが、親子ほども年の離れたいとこたちもいる。中には私と同級生の母のいとこもいたほどである。私の祖母の妹の一人に戦地から帰ってきた男性と結婚した人がいる。その人は戦前一度結婚しており、その妻子は山形県にいたそうだ。山形の空襲で母親は子どもたちの目の前で被弾して亡くなったそうである。
 その後、子どもたちは親戚の家に遊びに来た記憶のある静岡東部のこの地まで、線路伝いに歩いてきたそうである。線路伝いであれば道に迷わないという判断だっただろうが、幼い子どもを含めての徒歩での道のりはどんなにたいへんだっただろうか?と想像される。線路づたいで、道がないところもあるだろうし、線路を通る汽車も避けながら進まないといけない。今のように宿泊施設に泊まれる旅ではない、線路沿いに場所を見つけての野宿である。もちろんテントなんて持っていなかっただろう。無人の駅舎などに泊まったこともあるのかもしれない。また、お金があっても今のようにコンビニがあるわけではなく、そもそも戦争終了近くは食糧難だ。お金を持っていたら通りがかりの農家などに食べ物を売ってもらったりするしかない。そして、よく迷わずに来られたと思う。たぶん主要駅は上の子が頭に入っていて、地理的な道筋がわかっていたから、来ることができのたと思う。
 道路が整った現在、趣味で歩き旅をする大人もいるが、そういった人たちの記事を読んでもなかなか過酷だなあ。と思うのに、道路も設備も整っていず、とりあえず持ってこられそうなものだけ持ってよく来られたともう。
 そして、大叔母はその子連れの戦地から戻ってきた人と一緒になった時、連れ子の幼い子に「お母さんの亡くなった時の話は私が聞いてあげるから…。」と言ったそうである。つまりデブリーフィングをしてあげたわけだ。その後連れ子の下にも子どもができ、その子たちの中には私より2歳くらい上の子もいたので、子どものころ一緒に遊んだ覚えもある。その上の兄弟姉妹とは、私は年が離れているので交流をもったことはない。もちろん、母親は血がつながっていなくても、いとこにあたるのだから話をしたこともあるだろう。私の母は自分の叔母からその話を聞いたのだ。私が84歳で亡くなった母からその話を聞いたのは、母が亡くなる数年前のことだった。
 しかし、今の80代近くの人たちの中には、今では外国でしか聞かない難民のような苦労をした人たちも大勢いると思う。そういう話は是非後代にも語り継ぐべきだろう。

 朝の連続ドラマを見ながらそんなことを思い出した。

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