学生が持ってくる原稿に、すでに添削した赤字が入っていて、実は元の文が正しいことがよくあって、のみならず、元の文は正しいのに赤字が間違っていたりすることもよくあり、あちゃーと心の中でつぶやきながら指導している。
教師の顔をつぶすのは断腸の思いだが、教師として正しいことばを教えなければならず、それが今の自分の最大の苦悩である。
教師たちは知識や教え方で優れていても、運用面では学生たちの中に教師よりも達者に話したり書いたりする者が2年生でも何人もいて、若い頭の柔軟性や吸収力というのは驚異的だ。
1日8時間は勉強に集中できる環境にある学生と、一度教師になってしまえば学務や政治に追われて毎日勉強する時間がとれない教師とでは当然差が出るだろう。
その差は、言語の運用力というものが「生もの」だということの証拠なのかもしれない。
自分がネイティブ・スピーカーであるというだけで、自分よりも経歴の長い教師に「(その言葉は)そうは言わないです」と一言のもとに否定してしまえるその立場にも辛いものがある。
自分が逆の立場だったら本当にすごく嫌だ。
他言語を学んだり教えたりすることは、尽きることのない努力の積み重ねなのだろうか。学んでも学んでも現実のネイティブ・スピーカーにはどこまでも敵わない部分があって、まるで修行のようだ。
それでも母語以外の言葉を操れるようになると、自分の母語とその周辺の世界が明るくなるのだと信じたい。新しい言葉を身につけた分だけ視野も意識も広がっていき、世界が多義的に豊かになると信じたい。