愚ダメ記、真誤付き、思い津記

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ホワイトクリスマス

2022-12-24 | 日記
クリスマスを前に全国的に寒波が押し寄せ、いわゆる「クリスマス寒波」がやって来た。久しぶりにホワイトクリスマスになるかと期待したが、やはり山陽側の平野部では少し雪がちらつくことはあったものの、白い視界が広がるようなホワイトクリスマスとはならなかった。
 ホワイトクリスマスという言葉がいつ頃に生まれた言葉か知らないが、多分「ホワイトクリスマス」という昔のアメリカ映画に使われた歌が切っ掛けなのだろうと思う。雪が積もらない地方ではその「ホワイトクリスマス」という言葉は想像の中の憧れや幻想でしか無いが、青森に居た時は「いよいよ雪に埋もれる季節が始まる」という予告であり、ある意味では「苦しみの始まり」だった。
 それでも、クリスマスを祝うキリスト教の国々では、クリスマスの楽しみや喜びが長く辛い冬の始まりにおける「希望」や「励まし」となっているように見える。だが、日本でのホワイトクリスマスは単なる「飾り」か「商売のネタ」に繋がる言葉でしかない。少なくとも、クリスマスを楽しむ日本人の多くはその根本的な違いを認識しておくべきだろう。そうでなければ、自分達とキリスト教社会の人々の「クリスマスの楽しみ」に違いがあることを理解しないままとなる。
 多くの人達が「キリスト教の国々でも、別に皆が毎週教会に行くわけじゃない」と反論し、自分達と欧米人の意識の違いを過少に評価しようとする。しかし、正月に「初詣」に出掛ける多くの日本人の姿は、外国から見れば十分に宗教的な行いと映るだろう。「自分だって神道の信仰者と考えているわけでは無い」と説明する日本人の多くも、そこに仮に「初詣を単に楽しみだけの機会」として騒ぐ欧米人の姿があれば、その姿に強い違和感を感じるだろう。鳥居のくぐり方、神社参拝の手の叩き方、お盆や弔いの習慣に宗教的意義を見出す多くの日本人の姿は、宗教の異なる外国人から見れば十分に宗教性の濃い人々と映っている。
 日本の多くの風習に含まれる宗教的意義を尊重して欲しいと考えるなら、日本の人々もキリスト教に限らず外国の様々な習慣に含まれる宗教的意義に関心を払うべきなのだろう。

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