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「抽象的理念の反復」と実現の具体性

2021-05-11 | 日記

東京五輪の開催をどう判断するかという質問に、政府のリーダーが「国民の命と健康を守り、安全・安心な大会が実現できるように全力を尽くすことが私の責務だ」と答えたという。「そりゃそうだ」と同意。政府が国民の生命と健康を守るのは当然だし、また国を挙げての大イベント開催(または開催の許可)に当たって、政府が国民の安全確保と国民が安心してそれに参加あるいは感染できるよう努力するのは当然の責務なのだから。そこまでは、誰しも異論が無いだろう。

 で、国民全体の関心が「安全・安心な」東京五輪をどのようにして実現するのかに注がれている今、人々からの質問は政府責務の如何や大原則となる心構えの如何についてではない。というか、そこまでが人々から本気で疑われているのなら、もはや政府は立ち行かないだろう。その意味では、その大原則の所までを本気で疑っている国民はまだ多くはないと思う。ただ、国会での質問者が誰であれ、今の今、人々が政府のリーダーから聞きたいのは、「政府の責務に関する大原則を知っているか」や守ろうとしているかではなく、「安全・安心な大会」を実現するための具体的プランの如何である。

 質問の文面や語句が如何様であっても、人々を納得させるプランを政府リーダーが説明し(必要なら、B・Cと複数の代替プランを想定し)、そこに安全と安心の根拠があると言明すれば、人々は質問との多少の食い違いを責めるより「質問と合致している部分」をより大きく評価するだろう。繰り返す具体的方策についての質問に「安全・安心な大会の開催」だけを何度も繰り返すことは、「国民には具体的プランを説明する必要を感じない」とのメッセージになる。「私に任せておけば間違いないのだ」と自負と自信を示したいかも知れないが、それは人々・国民の側から湧き出て来る信頼によって実現するのであって、権力・権威の座に座れば自動的に備わるというものじゃない。

 仮に、未だそこまでの信頼感で人々に支えられていないリーダーが「黙って任せておけ」と言うだけでは、人々には「混乱して説明の重要性に気付かない状態」と映る。確かに現在かなり難しい局面に立っていることは認めるが、だからこそ、説明できることを丁寧に説明して理解と協力を求めるべきだろう。国民的行事と国民全体の危機の両方を解決しようとするのだから、国民との互いの信頼や協力関係を丁寧に造り上げ、一緒に乗り越えて行くべき目標を(「安全・安心な大会」という抽象的表現ではなく)具体的に示すべき場面なのだと思う。世界の国々も国際機関も、その「抽象的理念を繰り返す政府」の態度と国民の不信に注目しているだろう。この「抽象的理念の反復」から脱出できなければ、日本という国の在り様そのものに対する国際的不信も募りかねない。

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