そよかぜ日記

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楠木正成を旧赤坂村に訪ねて ①

2010年01月10日 | 歴史探訪
 この地の歴史探訪をするに至った経過はブログ「そよ風のなかで」に書きました。 以下、「ですます」調では雰囲気が出ないので文体を変え、2回に分けてレポートすることにします。


 大阪府と奈良県の県境にある金剛山も大和葛城山も、大阪側は現在大阪府下で唯一の村である千早赤阪村(ちはやあかさかむら)である。 ここはまた、「楠公(なんこう)さん」として親しまれている楠木正成(くすのき まさしげ)の出身地としても知られ、千早城に鎌倉軍を引き付け、知略を持って対峙し、建武の中興を成功なさしめた楠木正成活躍の場としても有名な所である。
 千早赤阪村は、1956年(昭和31年)、千早村と赤阪村が合併した村である。 旧千早村は千早城の攻防でよく知られているが、楠木正成誕生の地とされているのは、旧赤坂村にある。 平成22年の正月3日、この旧赤坂村を散策した。



 楠木正成誕生の地とされているのは、現在の住所で、大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分にある。 発掘調査では、出土遺物からは14世紀のものと考えられる、二重の堀を周囲にめぐらせた建物跡が検出されている。
 大きなクスノキに囲まれた石碑の周囲には、清涼な空気が漂っていた。



 すぐ近くには、楠公産湯の井戸と伝承されている場所も整備され、保存されている。



 このあたり一帯は金剛山に続く丘陵地である。 現在の地形からすると、井戸は斜面にあり、井戸を掘る場所としては極めて不自然な場所である。 周囲には田畑が広がっており、人の手で地形が変えられているのか、それとも・・・
 楠木正成の出自自体が極めて不透明であり、日本史上これだけ有名でありながら、前半生が殆ど謎に包まれた人物は他にはいない。
 楠木正成が明確に歴史に登場するのは、後醍醐天皇の挙兵に呼応して元弘元年に挙兵した時からである。 その挙兵の場所が下赤坂城であった。




 下赤坂城は、金剛山から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された、中世の山城である。 楠木正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間も、この下赤坂城や上赤坂城およびその支塞、そして千早城へと、地形をよく知るとともに様々な人的関係のある現地の強みを最大限に活用し、幕府の大軍を翻弄し続けるのである。
 城跡が学校になっている所は多い。 この場所も、最も高い所から一段下は中学校(千早赤阪村立中学校)になっている。
 この中学校のある反対側の斜面は開墾され、「下赤坂の棚田」として、「日本の棚田百選」にも選ばれている。



 戦闘のための城と平和な田園風景が歴史を経て現代で共存し、特有の空気を醸し出していた。

次回に続く)


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4 コメント

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Unknown (わんちゃん)
2010-01-10 23:12:03
棚田がきれいですね、

父方の家紋が菊水紋なんですよ、
お墓にもバッチリ菊水紋が・・・・・
楠木さんと、何かご縁があるんでしょうかね?

ところで、全部の歌詞は忘れてしまいましたが
子供の頃「青葉茂れる桜井の」を歌いながら
手をパチパチ合わせながら遊んだ記憶があります。



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Unknown (そよかぜ)
2010-01-11 08:43:33
そうですか、菊水紋ですか。何かつながりがあるのかもしれませんね。
菊水紋のことは次回の記事で少し書く予定でいます。

桜井の別れ、正成が討ち死にを覚悟して兵庫県の湊川の地に出陣する時に、島本町桜井で後を託して長子正行(まさつら)と別れる時の情景を歌った歌ですよね。
悲しい内容の歌なのに、子供の頃は落ち着いたメロディが気に入っていたのでしょうか。
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Unknown (わんちゃん)
2010-01-11 21:39:33
「青葉茂れる桜井の」
歌った思い出がありますが、
遊んだのは、
せっせっせ~~
♪いちかけにかけさんかけて~~♪
でした。
♪しかけてごかけてはしをかけ~~♪
と、続きす。
♪はしのらんかんてをこしに~~♪
まだまだ続きます、最後にジャンケンポンとなります。

友達に「大いなる勘違いやよ」って指摘されて・・・・・
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大楠公 (そよかぜ)
2010-01-12 00:24:30
納得です。

YouTubeの下のURLに「青葉繁れる」の歌がありました。「大楠公」というタイトルになっていました。
http://www.youtube.com/watch?v=5FzcFtcUjk4&feature=related
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