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やまねこマッサージ

ねがうこと、ゆだねること

考古学の入門的はなし

2012-09-18 | 歴史
考古学なんて優雅な学問を専攻している学生と
話す機会があった。

歴史学と考古学の違いというか、分かつものは
何かっていう話題になったんだけど、ゼミの教授に
聞いたところ、掘るのが考古学だと。

掘ること、発掘することのイメージは強くあるね。
。。こつこつ土を掘って探している風景っていうのが。

もう一つの定義は、文献があれば歴史学で、
それ以前の文献がない時代を考えるのが考古学。
文字のない民族を研究するのは人類学か。。



あとうろ覚えだったんだけど、同位元素を使って
年代を測定する方法の考え方を聞いたのね。

放射性炭素年代測定(radiocarbon datingと英語の方が
わかりやすいかも)と言うそうで、wikiによれば放射性
同位体である炭素14の存在比率が1兆個につき1個の
レベルで一定に保たれていること(!)に基づき年代を
測定していくらしい。


この手の図解が多い・・太陽、樹、馬・・といったシンボルが描かれる

この法則を発見したウィラード・リビー (Willard Frank
Libby)博士は、1960年にノーベル化学賞を受賞してるのね。


イラストは充実してて、いろいろある。ミュージアム、研究機関、出版社など作成。

この測定にも誤差が数百年単位で生じるからいろんな方法を
複合して年代を推定していくそうだ。

出土した地層の年代、使い方・文様など出土品の特色、
木の年輪などなど、さまざま推論を組み合わせる・・
推理小説を思わせる。

大学というか研究主体によって、文系的な方法が強いところ
理系的手法を重視する違いを生むそうで、人間臭いねw

元と清は北方の異民族

2012-08-09 | 歴史
中国の歴史の話になる。外国人による支配が長く、
そのなかで中華が長き繁栄をしてきた。覇権を
外国にとれらたんだけど、逆に異文化とのせめぎ
あいから強靱なものを生みだしたのかもしれない。


美しい日中韓の年表はこちら

唐→宋の後、チベット系民族の タングート族が
11世紀に西夏をたて、満洲民族の前身・女真族が
12世紀に中国の北半分を支配した金を建て、漢
民族は南宋を建て、中国は三国志にもどる。

そこにモンゴル高原を出発したモンゴル民族が
元を打ち立て、一時はアジア大陸全域を手中にする。
物資、人、情報のネットワークがはりめぐらされた。



マルコ・ポーロが来たのも元時代で、杭州を
「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と称した。



明は漢民族の国。250年間とりもどすんだけど
(北元と分けあう)それを、再度満州族が全土を
支配したのが清。

明も清の時代も財政事情、密貿易、海賊対策の
ために海禁(鎖国)政策をとったため、国力が
伸びず、ヨーロッパの大航海時代に遅れを
とったらしい。

積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパの
アジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと
多くの歴史家は推測するそうだ。

英国発祥のバドミントンと卓球

2012-08-05 | 歴史
ロンドンオリンピックを見てると驚いたことに、
バドミントンがイギリス発祥だとアナウンサーが
言っていた。サッカー、ラグビー、テニスはイギ
リス生まれ
と思ってたけど。

バドミントンはなんとなくインド、デンマークかと
思っていた。

Wikiによると諸説あるけどイギリスにも'battledore
and shuttlecock'(羽根つき)って伝統的な遊びが
あるそうで、ネットがもちこまれ、次第にバドミ
ントンへと進化したらしい。



英領インドで人気になってイギリスに将校が持ち帰った
とかバドミントン邸(現存する!)で名前がきまったとか
いろいろ載っているけど、きっと歴史好きの国民性だから
分厚い歴史書があるのかも。


19世紀に描かれたBadminton House

ともかく1860年代ごろに誕生したらしいバドミントンが
次第にイギリス中に普及していった。その後、1893年に
ルール統一の必要性から、イギリスにバドミントン協会が
誕生。これが歴史的な事実だし、協会つくったり、ルール
作りはアングロサクソンの得意技やね。



ちなみに卓球もイギリス発ときいて、卓球お前もかと
これまた驚く。やはり19世紀後半にテニス選手が、
雨でテニスができず退屈やったので室内のテーブルの
上でテニスの真似事をしたのが始まりらしい。

初めの頃は長い柄のついたバドミントンのような
ラケットとコルクの球を使用し、ネット代わりに
本を立てて並べていたらしい。


アメリカのメーカーが販売した卓球セット

戦争下の日系強制収容所

2012-07-17 | 歴史
アメリカの日系人のことを考える機会が増えている
門外漢だし、日系の知り合いがいるわけでもない。
こことかで書いた続き。

海外で暮らす日本人ならびに日本人を
祖先とする人達にとって、ふだんはどれだけ ・
日本人であるかを意識するかは人それぞれだろう。

それが戦争を始めると、否応なしに日本を
意識することになる。アメリカの日系に
とって日米開戦はまさに悪夢。


アマチ強制収容所

米国国籍など市民権を持っていた人も含め
日系人はすべて、強制収容所へ移動することが
大統領の署名で発効される。

交戦国となるドイツやイタリア系には適応されない
辻褄が合わないものだった。

そんなこと言ってられず、最小限の荷物をもって
10カ所の収容所へ向かう。その数、12万人。



空き家になった住居が強盗に襲われるので、
家財道具をコミニティのお寺さんに預けたそうだ。

タイタニック号のボイラーマン

2012-04-23 | 歴史
NHKBS歴史館『タイタニック 100年目の真実』で、
沈没まで電力供給に命をかけたボイラーマン達の
ことを知る。

タイタニックの動力や電気はボイラーマン達が
石炭によってボイラーを沸かしてタービンを回す
ことによって得られる、つまり石炭発電を船内で
行っていたわけだ。

そのボイラーマンはなんと300人いたそうだ。
乗組員が880人の3分の一だったんやね。
ちなみに船客は1327人。


一番底はすべてボイラー室


タイタニックの大きなボイラー群

氷河との追突事故が船の沈没につながる可能性の
高さを悟った船長はボイラーマン達に伝えたそうだ。

「船外に避難しても構わない。もしくはボイラーの維持
にたずさわってくれないか。これはこれは命令ではない。
ボイラーが止まったら電気が失われて船内は暗闇になり、
避難は困難になる。」

この言葉に持ち場を離れるボイラーマンはいなかったそうだ。
そして沈没2分前まで電気がついていたそうだが、ボイラーマンの
多くは命をおとす。その数216人。その勇気ある行動を家族や
仲間は誇りに思っただろう。

番組ではフクシマ原発事故への言及はなかったが、きっと
多くの人が原発の平時も事故時も支えている現場の人達と
重ね合わせたことは想像に難くない。



今年は沈没して100年目だそうで、番組やイベントが世界で
行われている。

米国のミズーリ州のブロンソンにタイタニック号の
一部レプリカなどをもちいたテーマパークが2006年に
できたらしい。

アイルランドのベルファストにもこの4月に
ミュージアムができたばかりだ。


これを見にアイルランドに行きたいとは思わないけど、
ボイラーマンの扱いがどうなのか気になった。


国立・大学通りの桜

2012-04-08 | 歴史
この週末、東京は桜が満開。天気に恵まれ花見日和
やったけど、土日の天候がそっくり。昼間はちょっと
風が冷たいけど、散歩には気持ちがいい。でも夜は
冷えて寒い。

地元の国立大学通りは桜の名所の一つ。昼間は人も車も
相当混雑したけど、夜は閑散としてたね。夜桜を優雅に
楽しむ猛者はほとんど見かけなかった。



この桜は皇太子様(現・天皇)の生誕(1933年)を祝って、
1933年~34年にかけて植えられたものだそうだ。 そうして
植樹されたトコロは全国に多いのかも。



この期に乗じてというか、国立の歴史をひもとくと、
西武コンツェルンの総帥、故・堤康次郎さんの構想した
「学園都市構想」がベース。

関東大震災(1923年)の影響もあって、郊外に新興住宅街を
建設するという「田園都市構想」が一種のブーム。
背景には東京が急速に人口増になったこともあるらしい。

堤さんは住宅地を中心とした「田園都市」よりも、
大学と街とが一体となった「学園都市」を目指す。
国立一帯の土地を買い取り、鉄道省に駅の建設を請願し、
国立音楽大学や一橋大学を誘致。


大正14年頃の国立駅前広場=くにたち郷土文化館提供

それと平行して駅前から伸びる3つの通りが建設された。
この通りの構想は素晴らしいと思う。

大学方面に伸びるメインストリート=現在の大学通りの
構想力もあるけど、残る2本=旭通りと富士見通りが
斜めであることが街に色合いというかアクセントを
作っている。

今ではあんまり西武の影響は感じられない。西武による
住宅やマンションの分譲ってあまり聞かないし、
西武信金もないしね。


GHQ支配下の民間援助

2012-03-20 | 歴史
昨日取りあげた秋尾沙戸子さん著作のエッセイ
『ワシントンハイツ』には知らなかったGHQ支配に
よる戦後史が満載だ。

公開されたアメリカ側の資料と日本の資料は焼失したり
焼却してほとんど残っていないのでインタビューや
自叙伝等をつきあわせながら再構成していっている。



戦時中も貧しかったけれど、敗戦の昭和20年当時、
大都市に住む日本人は「大量餓死寸前」にあった。
それをアメリカを中心に世界から支援物資が届いた
そうだ。

聖路加病院の日野原さんが「終戦後はアメリカから
ララ物資が届いて助かりました」と言及してはる
「ララ物資」とは、アメリカ、カナダ、メキシコ、
チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの諸国から
集まった対日援助物資の窓口を一本化するための組織。
運賃はアメリカ政府が負担。



アメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が
中心となって、知日派のキリスト友会員の協力の協力を
得ながらとりまとめに奔走したそうだ。

救援物資の総量は、金額にして400億円をはるかに
越えると伝えられ、日本人の六人に一人が恩恵を
受けたと言われている。そんな昔から支援物資を
送るということが行われていた。

ララ物資が最初に上陸した横浜港には、ララ物資記念石碑と
歌碑があり、歌碑には香淳皇后(昭和天皇の皇后)の御歌が
刻まれている;


ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ


当時の子ども達が歌っていた唄;
アイスクリームにチョコレート、日本のみんなに下さった、
ララのみなさんありがとう


アイスクリームはどうやって送ったんだろう?
日本で冷却したのか?

そのほか世界最大の支援団体「ケア物資」も日本向けに180億円。
「ガリオア・エロア物資」はアメリカ軍事予算で6000億円。
(もっともこれは一部長期返済することに)



著者の秋尾沙戸子さん曰く、「これらの援助がなければ、
日本人の餓死も疫病も防げなかった」そうだ。ありがたい。

「青山表参道の地獄絵図」

2012-03-19 | 歴史
昨日書いた東京大空襲に因んで秋尾沙戸子さん
GHQの占領時代のことを書いた『ワシントン
ハイツ』を取りあげたい。日本エッセイ・
クラブ賞受賞だけあって、めっぽう面白い。

第一章が「青山表参道の地獄絵図」と題して、
現在の表参道入口付近で5/25の大空襲の夜に
何が起こったかを再現していく。

今でもある二つの灯籠が明治神宮参道の入口だ
ったそうで、お正月などはここから相当混んだらしい。



そこにある山陽堂書店は空襲の避難建物になった。
鉄筋だったことと、地下室の井戸水が逃げ遅れた
100人を受け入れて、みな命が救われる。
(この3/5に121回目の創立記念日だった老舗!)

歌人・斎藤茂吉は表参道そばに自宅兼精神科病院を
開いていたが、焼失。8万冊の蔵書が灰になる。
(本人は山形疎開中)

この空襲は広範囲に渡り、焼夷弾の量は3/10の
倍近かったそうだ。諸説あるけど「東京の焼失面積は
全市街地の50.8%、死亡・行方不明者は10万人
以上」というから凄まじい。


警視庁の写真家・石川光陽さん撮影

朝になっても表参道のケヤキはまだ燃えていた。
そして参道も焼死体で埋め尽くされていたし、
灯籠のあたりに人が幾重にも重なっていた。
その光景は忘れられないに違いない。

NHK「東京大空襲583枚の未公開写真」

2012-03-18 | 歴史
NHKスペシャルで「東京大空襲583枚の
未公開写真」
という番組が放送された。

これまで、当時警視庁のカメラマン石川光陽さん
が警視総監直々の命令を受けて撮影したもの
しかない、というのが通説だった。

石川光陽さん撮影

それ以外の583枚の未公開写真の番組だった。
撮影したのは陸軍参謀本部の直属出版社「東方社」
(1941-47)。木村伊兵衛が写真部責任者で濱谷浩や
菊池俊吉等が働いていたそうだ。

外国への宣伝誌『FRONT』の発行が主たる業務
だったが、空襲の写真も撮っていたらしい。
そのネガが発見された。第一級の史料だ。


昨年、東京大空襲・戦災資料センターに寄贈される。
戦災資料センターでは研究所内外の研究者により
研究会を組織し、科学研究費助成事業を受ける。

カメラマン助手だった浅野隆(当時19歳)さんが
木村伊兵衛の忘れられない言葉を語っていた;
「現場で起きていることを後世に伝え残す」
戦争末期における彼の使命に対する強い意志を感じる。



この写真の特別展が開催中
『東方社写真部の記録したアメリカ軍の無差別爆撃』
戦災資料センター 4/8まで



・東京都慰霊堂が番組で紹介
墨田区横網の横網町公園内に慰霊施設があると知る。
1930年(昭和5年)に関東大震災の死亡者の霊を祀る
震災記念堂として創建されたもの。

1948年(昭和23年)より
東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀した
もの。その数10万をこえるそうで納骨箱が写されていた。

東京都の施設だけど、仏教各宗により祭祀。
神道ではないんだね。

B29が飛び立ったテニアン島

2012-03-10 | 歴史
明日は311。今日は310・・東京大空襲。
東京の空襲は100回を越えているけど、
その中でも大規模な5回のうちの1回だ。

空襲を行ったB29が飛び立ったのが
テニアン島。サイパン島の近く、
グアム島との間にある100㎢の小島。



グアム、サイパンが知られているのは直行便が
開設されたからで、テニアンにはサイパンから
船で行くしかないから、ほとんど知られていない
のでは。

平坦な島で飛行場に向いていたので、日本統治
時代には南洋諸島で一番大きい飛行場を作った。
軍事拠点として大きな役割をもったらしい。

それはアメリカにとっても魅力的なわけで、
グアムを占領した後、サイパン、テニアン
でも住民を巻き込んだ戦闘が行われる。

そして多数の自決者。テニアン島では軍人、
市民あわせて1万人を越える犠牲者を生む。


破壊されたテニアンの集落

生存者による証言によるテニアン島の番組を
NHKが2008年8月に放映している;
「楽園の島は地獄になった ~テニアン島~」
(この番組は珍しく無料)

負けたんなら自決なんてしないで降参すればいいのに
と思っていたが、このNHKの番組で証言した人曰く、
アメリカ軍は捕虜に対して惨い仕打ちをすると、朝礼で
軍人からから聞かされてからだと。

アメリカ軍が占領後、飛行場は拡張され、B29が
数多く飛びたつことになる、ナガサキ、ヒロシマへ
向った原爆搭載したB29も。