一生

人生観と死生観

パソコンのテンプレート

2007-10-31 09:40:46 | 生活
10月31日 晴れ
 確か宗教改革記念の日。16世紀ドイツでルターが法王庁の免罪符問題を取り上げて糾弾した。命がけの行為だった。
 私は生涯かけていのちの問題を追及した。二男のワクチン禍からそれは始まった。そしてそれは次第に拡がる勢いを見せた。科学の方面ではニッポニウムの解明に発展した。社会問題となる中央児童館もそうだ。子どもの育成は天下国家の大事だ。
 新仙台歴史巡礼道の行事は仙台市片平地区の東北大学キャンパスと向山の宮城県中央児童館を結ぶ歴史散歩道を歩く主旨だったが、お年寄が参加しやすい車での移動に変更せざるをえなかった。
 片平の歴史はどうしても東北大学中心になる。初期の歴史は大正リベラリズム発祥の頃で面白い。初代の教授たちも個性的で魅力がある。私が真島利行の遺族に依頼して入手した百年前のヨーロッパ留学生たちの間で交わされた絵はがきのコレクションは新発見史料となった。これをパソコンでワープロしているうちに、奇妙なことにぶつかった。
 「拝啓」は今でも使われる書簡の文の冒頭の句。その「拝啓」と打つと自動的に「敬具」が表われる。これがテンプレートである。便利なようにプログラムが入っているのだ。
 しかし葉書などでは終わりの敬具はほとんど省略されていることが多いから,これは有りがた迷惑のテンプレートである。しかも設定した文字の大きさが勝手に小さくなったりするのは全くいただけない。
 テンプレートは形式主義のあらわれ。これはよいこともあるが弊害が多いと思うのは多分私一人ではあるまい。人様に勝手に形式を押し付け、親切顔をする。世の中にこんなことは案外多い。お役所のやり方などはこんなことがワンサとあるのではなかろうか。